わたしには色字共感覚といって、文字に色を感じる感覚がある。
共感覚とは、文字や数字、音、味などに色を感じ、それが無意識に引き出されることをいう。こちらの調査では文字や数字、音など何らかの共感覚を持つ人は約15人に1人、色字共感覚を持つのは25人に1人という結果がでている。
それほどめずらしいものではないが、ASDには共感覚を持つ人が多いという説もある。ケンブリッジ大学の研究チームによれば「ASDは脳の領域同士が過剰に結びついているため、共感覚を起こしやすいのではないか」との見解を示している。
わたしは数字に色のイメージがあるし、言葉や人の名前などにも色を感じる。共感覚はなんだかカラフルで素敵な能力のように思われることもあるが、日常生活の支障になることも。
わたしの場合は「単語」に色がつくことによって、その言葉が理解しにくかったり、偏った捉え方をしてしまうことが多いことに気づいた。今日はその「共感覚とASDの言葉の捉え方」について考えたことを綴っていこうと思う。
わたしの「色字共感覚」
色字共感覚は、文字通り、文字や数字に色を感じること。文字や数字の情報と同時に、色の感覚が無意識に頭の中に浮かんでしまうことをいう。
わたしの場合、数字と単語に色のイメージがある。家族にも聞いてみたが、夫と息子は数字に色なんてない、意味が分からないと言っていた。彼らには共感覚はないようだ。
一方わたしの母親は、数字に色があると言っていた。共感覚には、遺伝的な要素もあるようだ。
0は白
1は赤
2は黄色
3は緑
4は水色
5は黒
6は黄緑
7はピンク
8はオレンジ
9は白っぽい黄色
10は赤だ。
なぜ1と10が同じなのか考えてみたが、おそらく1の赤と0の白は合わせても赤みが勝つので、10も赤なのだろうと思う。
単語にも色がある。
「自分」は白
「わたし」はピンク
「学校」はクリーム色
仕事は「青」
「電車」は黄緑
食事は「赤」
こんな感じだ。「電車」や「学校」はものの映像から連想しているが、「自分」「食事」などは理由のわからないイメージもある。
これが、人とのコミュニケーションの中で厄介に働いてしまうことがあるように思う。
共感覚最大の特徴は「情動」を伴うこと
わたしは、人との会話の中で単語に引っかかってしまうことがよくある。
特定の単語を使われるのがものすごく嫌だったり、反対にとても好きな単語があったりする。単語への印象というか、一種の「執着」のようなものがあった。人からの言葉に過剰な拒否反応を示したり、不快な気持ちになったりしてしまうのだ。
この理由は、その言葉の意味を正しく理解していない知識不足によるものだと思ってきた。
しかし、これがもし共感覚によるイメージが先行してしまうからだと考えると、なかなか筋道の通った仮説が立てられるように思う。
言葉捉え方が、単語の色のイメージに左右されてしまう
わたしは、色字共感覚のせいか、言葉の意味よりも色のイメージが先に浮かんでしまうことがある。
たとえば「渋いね」と言われると、くすんだ緑がかった茶色のような、少し汚い色が浮かんでしまう。
人から「君の趣味は、渋いね」と言われることがよくあるが、以前はこれに過剰に反応していた。「失礼だ!」と思っていたのだ。「君の趣味は、くすんだ汚い緑と茶色」と言われている気がしたからだ。
そしてわたしは「バカ」という言葉に「血のような赤色」を感じる。バカという言葉は、攻撃にも使えるが「あんたはほんとにバカだねぇ」と言って、子どもの頭をなでるような場面でも使う。必ずしも悪い言葉ではないのだけど、わたしには「血の赤」というイメージがあるので異常に毛嫌いした。
さらにいうと、「技術」という言葉は理解できるのに、「スキル」という言葉を理解しにくいことにも気づいた。技術という言葉で説明されれば理解できることを、スキルと言われてしまうとなぜか「水色」しか頭の中に浮かんでこない。新しい言葉や横文字などは、色のイメージの方が強くなってしまって、肝心な言葉の意味の理解が難しい。
共感覚最大の特徴は、色の感覚触発だけでなく、快・不快や好き嫌いなどの情動が動かされることにある。
つまり、わたしは他人と、無意識に引き出された色のイメージや印象を使って会話していたのだ。そりゃあ、うまくかみ合わないはずだ。
これが、いちいち単語に引っかかって、一喜一憂していた理由のひとつではないかと考える。
言葉にこだわるASDと色字共感覚
ASDはしばしば、言葉の意味や使い方に非常にこだわる。わたしもそのタイプで、誰かが言葉の意味や使い方を間違えているとすごく気になるし、気持ちが悪くて指摘してしまったりする。自分自身の言葉の間違いにも気を遣っているつもりだった。
それに、人の発言から単語をピックアップしてわざわざ意味を調べて、意図や心理をを知ろうとしたりする。こんな風にして言葉の意味を調べるのは、対人コミュニケーションにおいてはあまり役立たたなかったり、逆効果になったりすることもある。
しかし、言葉の意味をひとつずつ調べることで、色字共感覚のせいで間違えてしまった認識を矯正していくことができた。
頭の中が、言語情報と視覚的情報でごちゃごちゃになっていたのを、少しずつ整理できるようになったのだ。
言葉の意味を徹底的に調べたのは、純粋に楽しかったから。仕事柄……というのもあるけれど、これは「そうすると頭の中が整理されてスッキリして気持ちがいい」という快感を得るからこそできること。
わたしは言語性IQがいちばん発達している。得意分野だからこそ、これをすると楽しいし、気持ちがいい。だから研究も矯正も苦ではなかったのだろう。
これまでわたしは、色字共感覚の影響でぐちゃぐちゃのでたらめな辞書を作っていたのかもしれない。
言葉にこだわりすぎると、人との会話がよくわからなくなることもある。でも、こればかりはASDの特性やこだわりの強さに助けられたように思う。
ちなみに、算数や数学は大の苦手。これが数字の共感覚とどのように関係しているのかは、自分で説明できないのだ。いつかここも、分析してみたいと思う。