親が子どものためにできることなんて何もない。わたしはそう思っている。子どものためと思うことは大抵自分のためにしたいこと。自分を満たすためのエゴ。
それらはある程度、みんなにあることで、それが特別異常なことというわけでもない。しかし、よのなかには親から認められなかったり、所有物化されたり、競争やマウンティングの対象にされる子どもたちも少なくない。
それはありふれた日常にたくさんあって、周囲はおろか本人たちも気づいていないことが多いと思う。
A君の場合
たとえば、A君。彼は器用で何でもそつなくこなす素晴らしい能力をもっている。どんな人の中でもうまく渡り歩くコミュニケーション能力があり、男性にはなかなか見られない共感能力もある。
程よく手を抜くこともできるが、いざというときではしっかり結果を出す。スポーツ万能で、成績もそこそこ優秀な方だ。自分で決めた目標をしっかり達成し、様々なことで成果を出している。それでも、親は彼を誉めたことがなかったし、親子らしい会話もほとんどなかった。
Aさんの親は「人は時期が来たら結婚し、子どもを設けるものだ」という古くからのしきたり、教えに従った。夫婦の関係を深めることがまず難しく、その結果、その子どもに心から関心を寄せることができなかったのかもしれない。
Cさんの場合
Cさんは、勉強に限らず、親の理想や漠然としたイメージから大きく外れることは、話し方・振る舞い・表情・すべてにおいて叱責される幼少期だった。「みっともない」「恥ずかしい」「大人ぶるな」と言って、鋭い目つきで睨む。
親の理想は「絵本に出てくるような女の子」「どこに出しても恥ずかしくない女の子」だった。しかしCさんは親の理想とは逆で、人前ではもじもじし、家では落ち着きのない子どもだった。
子ども本人は「親が頭の中で描いている絵本」の内容も「なにが恥で何が美徳か」もわからない。Cさん本人は、そもそもできないことが多いしわからないことが多い。しかし、やみくもに手当たり次第にもがけば「親の理想像にマッチする瞬間」があり、それを手探りで探し当てていくギャンブルのような子ども時代だった。
Dさんの場合
Dさんは美人でスタイルよく、大人しい控え目な女の子だった。周囲をよく見ていて、冷静沈着、大人な考え方のできる子だった。しかし親は「この子は本当にダメで」「頼りない」と、いちいち人前でけなした。
Dさんの親は口数が多く、不安になりやすいタイプ。Dさんの親はDさんの「人より劣っている部分」や「自分より劣っている部分」を人前でわざわざ披露することで、自分の安心を守っていた。かと思えば、Dさんが周囲との関係性で悩むと「この子は悪くない!」と言って、周囲の人にクレームをつけ問題を大きくすることもあった。Dさんはそれを望んでいなかった。
「親」にいじめられた人たち
「親が主人公の幼少期を生きた人たち」
わたし自身も幼いころはそうだった。少しだけ例を挙げたが、これらに共通するのはどれも「親とは何か」「親になるという意味」が分からないまま親になった人なのかもしれない。
子どもを育てるとはどういうことなのか、が基本的にわかっていなかっただろう。
「ある能力を認めない親」もいれば「子どもに一切の関心を示さない(無視)」もいる。「考え方や立ち居振る舞いを矯正する親」もいれば「子どもより自分が優位に立とうと必死な親」もいる。
これらは、自分が満たされていなかったり、劣等感の塊だったりすることで起こることだと思うが、もっと簡単に表現するのであれば、ただの「いじわる」なのではないかと思う。
わたしたちは親にいじめられた
いじめの原因は「ストレスの多い環境に置かれた人が、攻撃的になること」で起こるとされる。
つまり、わたしたちに起こった不幸はどこまでも動物的で、本能的だということになる。どんなに子どもを愛そうという気持ちがあっても、親として責任を持とうという気持ちを持っていたとしても、ストレスにやられてしまえばその気持ちなど吹き飛んでしまう。
もしも、自分の子どもがよその子どもにいじめられたら「いじめの程度がどのようなものであっても、本人が苦痛を感じた時点でそれはいじめである」と思うことができる。
しかし、相手が自分の親、そしていじめられたのが自分自身となると話は別で。
「親はわたしをいじめた」という事実を簡単には受け入れられない。何か事情があった。親も大変だったと、何とかして自分を納得させたい気持ちになる。最愛の親にいじめられるような自分は、さぞかしダメで役に立たない子どもだったんだろうということにしたくなる。
本当はそうじゃない、ということを頭ではわかっている。人間はそのままで価値がある。幼稚な親が「いじわる」をしたからといって、それが自分の価値とは無関係であることなど理解できる。
それでも「親」という立場と関係性は、子どもにとって大きな力をもっているということだ。わたしはそのことを、ときどき忘れてしまっている気がする。自分も嫌な思いをしたはずなのに、忘れてしまっている気がする。忘れていないか、常に不安だ。忘れないように入れ墨で掘っておきたいくらいだ。
親としてできることは「自分自身を受容すること」だけ
わたしは正直、思い返すと、自分も親たちと同じように子どもをいじめてしまったのかもしれないと思う。小さなころから、本当の子どもをちゃんと見てきただろうか。本当の意味で、長男に関心を寄せてきただろうか。そして今はどうなのだろうかと、我に返ることがある。
わたしは本当に、親になるということがどういうことなのか、わかって産んだか。
けっしてそんなことはなかった。ただ自分の何かを埋めたくて、産んだだけだ。あのときの自分には「勢いだけがあった」という感じがする。
たぶん、わたしも無意識に子どもをいじめてしまったことがあったと思う。「本人が苦痛を感じれば、それはいじめなのだ」といういじめの定義を当てはめるのであれば、確実にわたしには加害性がある。
「わたしはいい親だ」「自分の親とは違う」などと確信を持つことはできない。親にいじめられた人は、子育てにおいてのあらゆる場面でここを経由する気がする。
この社会で生きているのであれば、ストレスと不安があって当然。「自分だけは大丈夫」そう過信せずに、常に振り返ることしか策がないのである。
ただ、そこで重要なのは「できる限り、自分のストレスを取り除くこと」「できる限り自分を受容すること」なのだと思う。
ストレスや不安が、子どもたちへのいじめ(虐待や不適切な養育)になるのであれば、自分自身がより生きやすく、ラクな方を選べばよいのだろう。
しかし、なんとも自分の性質上、完璧主義でほどほどが苦手。神経過敏で人とのコミュニケーションも苦手。こだわりが強くて感情的。こんなんだと、どうしても常にストレスを感じてしまうだろう。発達障害と機能不全家族の関係が深いのも頷ける。
だからこそ、自分の特性を理解することが重要なのではないか。診断名など本当はどうだっていい。「本当の自分」を、認めて欲しい。そして自分自身で認める方法をさがしているのだ。
発達障害やグレーゾーンは甘えなどではない。これから先の子どもたちをさまざまな虐待から守るために、まず自分のしんどさ、うまくいかなさを理解して受容すること。親からされてこなかった分まで、自分で受け止めること。
子どもたちの「ために」なんて言葉はきらいだが
「自分を受容する」それだけが唯一親としてできることなのかもしれない。