相手の意図を汲み取るのが苦手なASD。特徴のなかには「冗談がわからない」「社交辞令が通じない」「人の言葉を真に受けすぎる」というものがある。
こういう特性は、ASD傾向のない人からすると「困惑する」と捉えられるようだ。
逆にASD傾向がある人のとしては、冗談や社交辞令そのものが「困惑する」ものだと思う。
この記事では冗談や社交辞令を言われたときの思考回路がどうなっているか、そしてそのような場面でどう対応していけばよいのかを考えてみようと思う。
冗談や社交辞令がわからない理由は「言葉を言葉のまま受け取る」から
冗談や社交辞令が通じない人は、真面目で純粋で素直であるという風に言われていることもあるようだ。
確かにそれも一理あるが、本質的には「言葉を言葉のまま受け取るから」というのが理由になっていることもある。言葉の意味に忠実に理解する、というだけ。
ASD傾向があると、言葉の奥に隠された意味や雰囲気、ニュアンスを理解しにくい。そのため「言葉のあや」や「ジョーク」を真に受けてしまうので、相手が想像していた返しとは違った反応をしてしまうのだ。
ASDにとって、会話のなかで使われる言葉はすべて「辞書通り」なのだ。
わたしの体験談
わたしは子どものころから冗談を真に受けすぎたり、大人が言うすべての言葉を「真実だ」と信じてしまうところがあった。子どもの頃は、誰しも純粋で、疑うことを知らないから尚更だろう。
月にうさぎが住んでいる
母から「月にはうさぎが住んでいる。月にいるうさぎの姿はいい子にしか見えない」と言われたことがあった。
わたしには、正直月の表面にうさぎの姿など見えなかった。わたしはいい子ではないのだと本気で信じ込んで「どうしよう、わたしはいい子ではないんだ」と母に相談した。母は「本当に信じているなんて」と笑っていた。母は「こんなことを信じるわけがない」と思って、言っていたのだろうか。
今度遊びにいらっしゃい
またあるときには、家の前の公園で遊んでいるときに近所の中年女性に声をかけられた。女性はわたしにひとしきり話しかけたあと「同じマンションに住んでいるのね。今度、一度遊びにいらっしゃいね〜」と言って去っていった。
わたしはその女性とわかれたすぐ後、家に一度帰ってからその女性の部屋を探してピンポンした。
女性は驚いていて、困惑した様子だったのはわかった。たぶん、去り際の挨拶として言っただけだったのだろう。そのあと、その女性と親しくなるようなこともなかったが、もしこれが悪い人や男性だったら……と思うとぞっとする。
今度ゆっくりお会いしましょう
大人になってもそういうことは度々ある。SNSで知り合った女性に「今度一度ゆっくりお会いしてみたいです」と言われた。
わたしの方としては、どうしても会いたいわけではなかったが、相手にそんな風に言ってもらえるのはありがたいこと、無視するわけにはいかないと思った。
わたしは日程を調整して連絡した。しかしなかなか相手と日程が合わない。どうしよう…と困って相手に相談すると
「そこまで無理しなくて大丈夫ですよ」と返ってきた。あとから考えたらあれは社交辞令だったかもしれない。
料理、作ってほしい!
知人と他愛もない話をしていたときに、料理が好きだという話になった。
相手は料理が苦手だそうで、わたしの話を聞いて「料理好きなのっていいなぁ~、苦手だからうらやましい。今度作ってよ!」と言った。
わたしは「じゃあ好きな食べ物と食べられない食べ物を教えて」と言った。すると「は?いやいや冗談だよ!」と笑っていた。
冗談、社交辞令、難しい。
他にも、話しているときの返しで「めんどくさ!」「こわ!」「バカじゃないの」などと言われると、かなり真に受けてしまう。否定的な言葉でも、言い方や表情などによっては批判ではなくてユーモアであることも多い。
でも、わたしはけっこう傷ついてしまうし、自分はそういう言葉を人に返すことができない。わたしの家族も同じ傾向がある。身体能力が高いことを褒める意味合いで「やば!人間じゃないでしょ~」などと言われると「人間に決まってるだろ!」となってしまうようだ。
文字にすると(笑)で表現されるようなニュアンスが、わからない。言葉は、辞書に書いてある意味の通りに使ってしまうし、解釈しているのだ。
冗談や社交辞令とどう付き合うか
冗談や社交辞令というのは、ものごとを円滑に進めるための「挨拶」や「テンプレート」だったりする。
しかし、自分の自然な解釈だとどうしても「字義通り」に受け取ってしまって混乱する。
批判的な意味でも軽いトーンで笑顔で発するのであればそれは「うそ」なのか。それとも、本当のことを笑いながら言っているのか?などなど疑問が湧く。
ASDが苦手な意図の汲み取りだ。わたしの場合、あとからゆっくり考えると「あぁ。あれは社交辞令だったのか」とか「親しみを込めた冗談なんだ」ということがわかることも多い。
でも、「どういうつもりで言っているのか」を、会話の中で、流れるように、とっさに判断するのが難しい。
思い返して「あぁ、あれはそういう意味だったのか!?」と理解するが、そのときには相手に言葉を返すことができない。この瞬間の悔しさといったらない。
「相手の思うような反応ができなくてもよい」とする
わたしは、社交の場であれば「相手の思うような反応ができなくてもよい」と考えられるようになった。
昔は「あのときこう返せばよかった」「あのとき、あれを言ったのはまずかった」とグルグル考えることに多大なる時間を使っていた。
いわゆる「反芻思考」というやつだ。しかし、この反芻思考も悪いものではないと思う。
「あのときああ言えば」「あれはこういう意味なのだろうか」と考え(振り返り)次回に活かし(改善と実践)また反省し、次回に活かし……の繰り返しをすることも大事だと思う。
「終わったことをくよくよ考える」のではなく「相手の反応やコミュニケーションの違和感」を後から分析すれば、次回の策がとれることもある。
ASDは「適度」や「ちょうどいい」がわからないというのが大きな特徴。その適度を判断するには、やっぱりさまざまな経験と思考から導き出されるデータなのだと思う。
以前、メンタルクリニックの心理士さんと話したときに「常に統計やデータをとりながら生きている感じがする」と話してみたことがあった。
その時心理士さんは「空気を読みすぎるタイプは、データを集めて統計を取って、そこからちょうど良いポイントを見つけている」というようなことを言われた。
その時咄嗟に自然な反応ができなくても、経験を重ねるうちに「だいたいこんな感じ」がわかることもある。それでもわからないものは、あきらめている。
「他人に悪く思われないように」するのをやめてストレス値を下げる
わたしはもっと若いころ「他人に悪く思われないように」を重視する節があった。幼いころから、話し方や立ち居振る舞い、言葉の使い方などすべてにおいて厳しくしつけられていたので「人に悪い印象を与えると大変なことになる」と信じていた。
でも、実際他人は、わたし個人の話し方や振る舞いにそこまで興味がない。
「噛み合わないな」「変な奴だな」と思ったら、何も言わず去って行ってしまうだけだ。去っていかない人も、見積もって30人に1人くらいはいる。
「悪く思われないようにしよう」と思っていたころは、とてもストレスを溜めていた。「人にどのような印象を与えるか」という正解の分からないことを延々と考え続けていたからだ。
一方「よく思われよう」としていたこともあった。よく思われるために、自分から相手に尽くしたり、嫌なことも受け入れたり、自分を捻じ曲げて他人軸に生きていたこともあった。
「悪く思われないように」「よく思われよう」をすべてやめて「こんなわたしですけど何か」という姿勢になれたのは、30代に入ってからだと思う。年齢が若いころは、ガマンや疲弊を繰り返しやすい。それは多くの人にあることではないだろうか。
経験上、冗談や社交辞令を字義どおりに捉えて「怒り」や「嫌悪感」が湧くときは、自分に余裕がないときだったり、ストレスが溜まっているときだったりする。
自分に余裕があるときは「なんでそんな言葉使うんだろうな~」と流せるし「あ~また変な返ししちゃったけどしょうがない」で済ませられる気がする。
意図を汲み取ろうとしないのではなく「すぐに汲み取れない」
「冗談の通じない人は、相手の意図を汲み取ろうとしない」という意見も目にした。
しかし、ASDの場合は汲み取ろうとしないのではなくて、自然な自分では汲み取れないだけだ。一生懸命くみ取ろうとすると、人よりも3倍くらいはエネルギーが必要で緊張状態になる。人の3倍考えなければいけない。
そのせいでストレスを溜め、疲弊し、さらに言葉への「こだわり」が強くなって……という負のスパイラルなのではないだろうか。
けっして「汲み取ろうと努力していない」わけではない、ということをわたしはここに記しておきたいと思う。
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