日記

人生のどん底とは「不本意に生きている」ということ

今日は、人生のどん底とは何かを考えてみる。

先ほど、ある経営者の方が書いた記事をふと開いて読んでいた。そこには人生のどん底を何度も経験し、本当の自分を生きることの大切さを痛感した話が書かれていた。

そこでわたしが気になったのは「人生のどん底」だった。

前から「人生のどん底を知っている人は強い」とか「お前、地獄を見たことないだろ」なんて言葉をよく耳にしていた。

「わたしは人生のどん底味わってるからね」とドヤ顔で語る人もいた。

その言葉を聞くたびに、何かモヤっとしていたのだ。

「人生のどん底」って何だろうと。ここでは「人生のどん底」という言葉を深堀していこうと思う。

「人生のどん底」は誰もが既に味わっているもの

人生のどん底というのは、すでに誰しもが味わっているものなのではないか。

たとえば、去年生まれた赤ん坊にだって、生まれてからのこの1年間の間に一番こわかった瞬間とか、寂しかった時間、わけのわからない不快感に襲われたことがあるはずである。

小中学生だって、いじめられて悩んだり、親にこっぴどく怒られたり、先生に贔屓されたりして、ひどく悩むことがある。

誰だって、人生のどん底をすでに味わっている。

「人生の」とついているのだから、その人の人生におけるもっともつらく厳しい瞬間や時間のことを「人生のどん底」と呼ぶのではないだろうか。

だからわたしは「自分は人生のどん底を味わってる」とか「自分は地獄を知ってる」などと言われると、何か筋の通らない感じがしていたのだと思う。人生のどん底は、人と比較するものではないのだ。

人と比較して「人生のどん底を見てる」「あんたは見てない」という線引きをして、どん底経験を武器にし、マウントをとっている時点でいけ好かないと思ってしまう。

自分の「人生のどん底」はどれだろう

では、わたしは自分の人生のどん底をいつだと思っているのだろう。

そう考えてみたけれど、わたしには「どん底」というその概念自体がずっとなかったように思う。

確かに「つらかった時期」というのはあった。死んでしまおうかなと思ったことなんて何度もあるし、ノイローゼ状態だったこともある。車で走りながら、このままどこかに突っ込んでくれないかとよく思っていた。

「あの時に比べたら今はまだマシ」と、振り返って今思うことはある。でも、あの頃だって「今が人生のどん底」だという感じはしなかった。

もちろん食うものや住む家に困ったことがないし、事件や事故に巻き込まれたことがない。

だからやっぱりわたしは相対的にどん底を知らないのかもしれない。

ただ「底」というのは、自分の人生至上、これ以上悪いことなんて起こらない位置を指すだろう。しかし、もっとも悪いことというのは「死」だと思う。意に反して死んでしまうこと、最愛の誰かを突然亡くすことだ。

そもそもまだ先を生きてもいないのに、今がどん底と思えるのはどうして?と思ってしまう。これはたぶん、言葉を言葉のまま考えるからだろう。

わたしは、よく最愛の人たちが突然死んでしまう想像をする。子どもを事故で亡くす想像、夫が突然病気で死んでしまう想像。

わたしはそのとき、どういう振る舞いをするのだろう。取り乱すのだろうか、どういう感情が湧くのだろうか。その後、悲しみに打ちひしがれて食事も睡眠もとれなくなるのだろうか。それは一体どういう感じだろうかと、想像してみるのだ。

これは、いつも人生におけるもっとも不幸な出来事を覚悟しているのだと思う。常に最悪の事態を想定をしながら生きている。だから、わたしは何があってもその状態を「どん底」とは感じないのだ。

悩んでいても、どん底という表現は浮かんでこない。過去のことを思い返しても、どん底がどこだかさっぱりわからない。

どん底を意識しないのに、死を意識するのはなぜだろう

ここまでで、ちょっとした矛盾が生じているように思う。

人生におけるもっとも不幸なできごとは「死」だと思っているのに、わたしは何度も死を意識している。つらい状況が続けば「死んでしまった方が楽」だと思う。それはどうしてだろう。

それは、実現しない死だからだと思う。わたしはいつだって、ほんとうに死ぬ気なんかない。つらいときに「死にたい」と思うのは、死にたいというよりも「消えてなくなりたい」という感覚に近い。

だから、実際に死のうとしていないし、死ぬ気なんてさらさらない。自分が死ぬということを信じていない。本当に望む死ではないのだ

ただ、楽になりたいから消えたい。今の感情や思考から解放されたいだけなのだろう。

わたしがさっき考えた「人生のどん底」というのは、心を病んで自ら望んだ死ではなく「不本意な死」なのだ。

死というのは「天に召される」とも言い換えることができる。けっして、不幸なこととは限らない。

わたしの祖父は90代で家族に看取られながら、素晴らしい最期を迎えた。残された家族に喪失感はあっても、本人はきっと不本意な死を遂げたとは思っていない気がする。

天寿を全うするのであれば、それは自然であり幸せなことでもある。

とすると……

死うんぬんではなく「不本意」であることが、人生のどん底を引き起こしているかもしれない。

人生のどん底とは、不本意な状況のこと

つまり、人生のどん底とは「不本意」な状況のことを指すのではないか。

それは死かもしれないし、事件かもしれないし、いじめかもしれないし、借金かもしれない。

つまり全部、自分の本当の気持ちや望みに合っていない事柄や状況。それがいくつも重なったりして、掛け算的に問題が大きくなったときのことを「人生のどん底」と表現するのかもしれない。

そもそも、ずっと不本意な状態に耐えている場合もある。人の顔色を見て、危険が起こらないように立ち回ったり、自分に危害が及ばないようにビクビクして生きたりすること。それをずっと続けていて、クセになっていることもある。生まれてからずっと不本意な環境で生きている人もいる。

そういう場合、ずっと「人生のどん底」なのかもしれないな。

だから、さっき読んだ経営者さんの記事に「本当の自分を生きることの大切さ」が書かれていたのかと、つながりが見えた。

不本意な状況に耐えている人、たくさんいる。

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