人間関係

「謝罪」は本当に誠意なのか

謝罪とは、本当に「誠意ある行動」なのだろうか。

謝罪とは、罪をわびることを指す。そして「わびる」とは「心苦しく思って、悪かったとあやまること」「さびしくおもう」「心細がる」「 落ちぶれてみすぼらしいさまになる」「あれこれと思いわずらう。悲観して嘆く。思い悩む。」などの意味を持つ。

一見、謝罪は「相手に対する誠意」と思われがちだが、実際は「許してほしい」「自分の心苦しさを解消するための行為」であるともいえる。

謝罪って、本当に誠意なのだろうか。

謝罪は自分を守る行為か?

AとBの間で揉め事が起こったとする。そこにはさまざまな事情と背景と心情があって、AやB以外の人との関りも反映されているとする。というか、人と人との揉め事は決して1対1とは限らず、その周辺にいる人や関わった人の影響もあるはずである。

しかし、一見すると確実にAの落ち度が大きいとする。

その場合、Aは誠心誠意を込めてBやBの家族などに謝罪をしたとする。

でも実際は、Bにも落ち度があるか、それ以上に根深い問題をBが抱えていて、そのせいでAが加害者的な立場になったというケースもあるだろう。

しかし、Aは「立場上の誠意を見せる」ためにBやBの家族に謝罪をしたとする。

この場合、Aは本当に誠意を見せたことになるのだろうか。

「一見Aが悪い」という体裁を、何とか払拭するために誠意ある行動をとり、自分の立場を守っただけなのではないだろうか。

本当は、Bにも落ち度があった。むしろ、Bの方に問題があった。もちろん、どちらも同じだけの分量だったかもしれない。

「謝罪」をするということは、自分の罪を認めて「許されよう」とする行為。許してくださいと懇願する立場。

これって、本当に誠意のある行動なのだろうか。

「わびる」という言葉をよくよく見ていくと、結局自分の心苦しさや心細さ、みじめさなどを表す言葉ばかり出てくる。結局、罪をわびることは、自分の心苦しさや心細さ、傍から見るみじめさに耐えかねての行動なのではないだろうか。

誠意とは

誠意とは、私利・私欲を離れて、正直に熱心に事にあたる心、まごころ、などとある。

「私利私欲を離れて」という部分が引っかかる。私利私欲を離れるのであれば、謝罪を通じて自分の立場を守る行為は誠意とはいえないのではないだろうか。

Aは、謝罪という行為によって自分の言い分や正当性を放棄して、全面降伏することで自分の体裁を守っただけかもしれない。

同じ謝罪でも、心から悪かったと反省する謝罪もあれば、自分の体裁を守るためだけの謝罪もある。

自分のために謝っているにすぎず、そのような謝罪は決して誠心誠意とはいえないのだ。

謝罪された側は「許すべき立場」だと思いこみやすい

謝罪をされた側の気持ちはどうだろう。

誠意を込めて謝られれば謝られるほど「許さなければならない」という圧を感じるだろう。

もしくは「罪人を許す立場」という風になる。

「自分は悪くない」が誇張されることもある。

でも、起こった出来事にはどちらが「いい」「悪い」「間違っている」「正しい」という線引きはできないことの方が多い。よっぽど理不尽な出来事や事件などであれば別だが、日常で起こる出来事の多くは、どっちにも言い分があるものだと思う。

AがBに謝罪したら、Bは「俺は間違ってなかった」ということを強く思うかもしれない。

表面だけの謝罪に何の意味があるのか。

でも、この社会で生きていくためには表面上の謝罪が必要なシーンはいくらでもあって。

自分の謝罪が、本当に心からなのか、それとも、自分のためなのか。

自分のためであってもいいと思う。自分の心や立場を守ることだって、時には必要である。

でも、それは誠意ではない。

考えれば考えるほど「謝罪」って、難しいものだと思う。

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