自分をいじめる心理について、考えたことはあるでしょうか。
自分を責めすぎるとか、自分に心の中で罵詈雑言浴びせちゃう人とか、きっといると思います。
一般的には「自分をいじめないで」というのが定説ですし、わたしもそれが癖になっていたり、常習化するのはやっぱり精神衛生上はよくないと思う派です。
でも、わたしには自分をいじめたくなる時があります。
過去は無意識に自分いじめをしていたんですが、今はそうではない。
「あーーー自分をコテンパンにいじめたい!」とはっきり自覚することがある、という感じです。
そこで私は思ったのですよ。
自分をいじめるのって「自分に甘えている状態」なのではないでしょうか。
自分をいじめる心理の本質
わたしはだいぶ、自分を無意識にいじめるようなことはしなくなりました。
でもときどき、めちゃくちゃ疲れているとか、ホルモンのバランスが悪いとか、いろいろなことが重なると思いっきり自分をいじめたくなるんです。
心の底から「こいつをいじめてぼっこぼこにしてやりてぇ!!」という気持ちがむくむくと湧いてくる。
それを行動に移すこともあります。いわゆる自傷行為をしたり、泣きながら心のなかで自分を罵倒したりとか、そういうことです。
でも、自傷や自責って、やるとめちゃくちゃスッキリする部分があると思います。
やっちゃいけないんだけど、やると気持ちいい。
自分をいじめたり、自傷したりしたら、自分が傷つくのですが、心のどこかは解放感にあふれていたりする。すごく矛盾しますが、その矛盾には「甘え」が大きく関わっているなと思うのです。
いじめや暴力は「受け入れてくれる人」を選ぶ
いじめや暴力で、人を攻撃する人は、絶対に「この人なら受け入れてくれる」という相手を選んでいます。
受け入れてくれるというのは、目をつむってくれるのかもしれないし、反撃してこないという安心感かもしれないし、自分より劣っているという優劣での安心感。
もしくは自分より立場が弱いから攻撃しやすいのかもしれない。
そういうのって全部、受け入れ(黙認でもある)だと思うのです。
大抵、人を攻撃する人というのは心に問題を抱えていますから、そのストレスやフラストレーションの吐き出し口として、自分より弱いもの、自分の甘えを受け入れざるを得ない人を選ぶんだと思います。
これが、立場も力もメンタルもかなわないような相手だったらどうでしょうか。
攻撃をしかけるようなことは、しないはずです。
よく、家庭内暴力で子が親に手を上げたり、暴言を吐いたりして攻撃するなんていうこともあります。これは親が甘やかして、黙認するから成り立つことです。
甘えには2種類ある
ここで「甘え」には、2つの種類があることにも触れておかなければなりません。
「甘えさせる」と「甘やかす」の違い、というのはよく子育て現場などで話題になりますよね。
同じ「甘え」でも、必要な甘えと、ダメにする甘えがある、ということです。
自分をいじめる心理における「甘え」は、ダメにする方。
自傷や自分に暴言を浴びせる、責めるなどの行為は、ダメにする方の甘えで、英語でいうとspoil。台無し、腐るという意味もあります。
一方「甘えさせる」は英語でpampas―でしょうか。パンパースというおむつがありますけれど、あれは「大事にする」という意味があるといいます。
自分を大事にするために、自分を許し容認すること。それが「甘えさせる」です。
おそらくわたしは、この違いを理解しているからこそ、自分を無意識にいじめるのではなく、「いじめたい!」とはっきり認識できるのではないかと思います。
自分で完結しているからこそ、自分をいじめたくなる
わたしはあまり、誰かに甘えて欲求を満たそうという発想がありません。それはもともとそうなのか、そういう性格になってしまったのか、今となってはよくわかりません。
でも、他者を介在させずに自己完結するのが好きというか、得意というか、楽なのです。
だから、人を攻撃しないし、人に甘えもしません。
だけど、自分の中にもう一人自分がいるんです。そいつに甘えたり、ときには攻撃したくなったりしているのだと思います。これが健全ではない、と言われればそうかもしれないと思います。
でも、それがはっきり自覚できており、自分の責任で使い分けているのなら問題ないのではないかと思ってもいます。
自分をいじめる心理や、その姿は誰にも知られたくない
じゃあ、自分いじめをしている様子を誰かに見られるのはどうでしょうか。
わたしは心の中で「お前なんか消えちまえ」とか「お前さえいなくなれば!」とか、さんざんなことを言います。自分いじめの罵詈雑言としては、消えろ、いなくなれ系のいじめ文句が多いですね。
それをガーっと心の中で唱えるようにして、自分に浴びせて、浴びせられた自分も泣いたりとかして、それではースッキリ! って感じです。変態でしょうか。
変態でもなんでもいいのですが、とにかくたまにそれをやるとスッキリするんです。
でも、絶対にそういうことをしているなんて、普段人には言えないです。
「わたしさえいなくなれば」とかよくSNSのような場所で見たりしますが、それは他者に向かって言っているのと同じなので、それは本当の意味での自分いじめではない気がします。
どちらかというと自己憐憫です。
だから絶対に、自分に対する罵詈雑言を人には話しません。(ここで書いているのは、自分いじめる心理構造の話なので大目に見てください)
最初にわたしが発達障害の検査を受けようと思ったきっかけも、自分をなぐるという自傷行為がたびたびあって、それはいけないことなんだと信じていたので、やめなければならないの一心で相談に行ったのでした。
でも、今思えば、それは自分の中にspoilの対象と、pampasの対象の2つが共存していて、そこに向けてアプローチしているだけなんだなと腑に落ちます。
誰にも迷惑かけませんし、年齢とともに減ってきてもいます。
何より自分の中に、攻撃と受容の両方を引き受けられる存在がいるというのは、なんだかすごく便利だし、ローコストでよいとさえ思います。
それを「そんなのよくない」とか「自分をいじめないで!」とか言うのは、ちょっと浅はかかなという気もします。
問題なのは、攻撃だけが多くなっていることや、無意識でやっていること、癖になっていることで日常生活や人間関係の足かせになっているような場合です。
なんだかもう、自傷行為なのか自慰行為なのかもわかりませんけれど、そうして自分を保っているような人間もいるということです。
んーでも、書いていて思ったのは、自己完結人間で、人に迷惑かけてないしローコストとか考えている時点で、少し狂っているのかもしれないですね。
とにかくわたしは、自分を保つためには自分をいじめる時間も必要なので、ほっといてくれと思うのです。