人間関係

ダブルバインドに隠れたふたつの恐怖

以前、知人から軽い脅しとダブルバインドを受けた時の話を整理する。

心理学におけるダブルバインドとは、ふたつの矛盾したメッセージを与えることによって相手を混乱させることをいう。混乱が生じるのはたいてい「否定的ダブルバインド」といって、どちらを選んだとしても相手にとって悪い結果になるものだ。

ダブルバインド自体が悪いものなわけではない。

とくに「肯定的ダブルバインド」は、ビジネスシーンや営業テクニックとして使われることもある。日常生活のコミュニケーションの中では頻繁に使われているものだ。

ただ、相手を自分の思惑通りににコントロールしようとするとき、このダブルバインドが有効になるようだ。

相手にとってもメリットがあるようににコントロールするのに役立つこともあれば、単純に自分にとって都合のいいようにコントロールできる方法でもある。

つまり、相手を混乱させて恐怖やストレスを与えて、自分が優位に行動できるようにするための手法になりやすい。そして、非常に簡単に人を動かす方法としても有効になってしまう。

ちなみに、日常的にダブルバインドを受けてきた場合精神疾患のリスクが高まるともされている。

以前、知人とトラブルになったとき、相手はこちらに「話し合い」の場を要求してきた。しかし、相手からは「話し合いをしたい」「説明してほしい」という要求がある一方で、「言い訳をされては困る」という発言もあって、わたしは非常に混乱した。

ダブルバインドの具体例としてよく挙げられるのは「説明しろ、しかし言い訳はするな」というもの。上司から部下へ、親から子へなど、上の立場から下の立場の者に対して行われることが多い。

何かがおかしい。通常通りに考えて行動しても、円満な解決方法にたどり着かない。何かがおかしい……混乱と恐怖で、急性ストレス障害の症状が出ていた。

二重拘束の恐怖

トラブルの相手は、もともと気が合う人ではなかったし、得意なタイプでもなかった。自分とは正反対の性格の人だと思っていた。

そんな人からわたしは、とある疑いをかけられて「どういうつもりか説明しろ、しかし言い訳はするな」と言われた。

その前に、軽い脅しをかけられていたので、余計に怖かった。

わたしはまず「この人は言っていることが支離滅裂だし、提示された要求の中にも飲めないものがある。話が通じるタイプの人ではないようだから、本音での対話は避けよう」と思った。(これが悪いのか?)

そのため、謝罪をしつつ「そちらの要求のうち●●と●●に関しては承知しました。今後の具体的な対応方法については改めて相談させてください」と願い出た。

しかし「それじゃ納得できない。説明してほしい。どういうつもりなのかを話せ」と言われた。

感情的な部分の話をしないと気が済まないようだったので、家族と話しながら自分たちの言い分や気持ち、事情、考えをまとめてみた。文章にまとめたりもした。

しかし、何度考えても、いくらまとめても「相手が納得してくれるだろう」という期待感がまったく持てず、恐怖しか感じなかった。

というのも「言い訳」とは自分の言い分であり「説明」である。しかし「説明」というのは「言い訳」でもある。

どうやっても、何度考えても、相手の要望をすべて満たして納得してもらう運びにはならない。

試しに「言い訳」という言葉を辞書で引いてみると……

自分のした失敗・過失などを正当化するために事情をなるべく客観的に説明すること。 弁解。 弁明。 口実。

ウィクショナリー日本語版

このように出る。

「言い訳をするな」と言われているので、いくら説明しようとしても「説明するな」になってしまい、どうしたらよいのかわからなくなった。しかし、事情の説明なしに場を収めることも許されなかった。

ダブルバインド以外に軽く脅されたこともあってか、わたしはこの件を抱えている間、1週間何も食べられなくなって、夜も眠れなくなってしまった。仕事もできない、笑えない、子どもに話しかけられても何も答えられなくなった。

おそらく、相手はこちらの謝罪も説明も言い訳も聞く気はないが「吊るし上げる場」を設けて攻撃したかったのではないか、と思っている。

他人からこのような対応をされることによって、こんなにも人は恐怖を感じるのか。

二重に拘束され、逃げ場がない。

何をしても、何を選んだとしても、自分にとって不利で理不尽な結果しかないその「話し合い」という負け戦に向けて、1週間飲まず食わずで臨んだのだった。結果、それで収束とはいかなかった。

しかしわたしは一切の嘘をつかなかったし、本来話したくないこちらの事情もすべてさらけ出して誠実に対処したつもりである。

日常的によく行われている、という恐怖

ダブルバインドは、決して珍しいことではない。誰しも日常の中でちょっとしたダブルバインドをやってしまうことがあるものだという。

それがまさに、恐怖である。

きっとわたしと対峙した相手も、自分が人を攻撃しているとは思っていない。むしろ自分は被害者だと思っているだろうし、実際そうなのかもしれない。

わたしが加害者で、ひどい人間なのだろうか。わたしがモラルハラスメントをしているのか、もしくは自己愛性人格障害なのかもしれない。そういう風に「自分がおかしいのかもしれない」と、今も思い悩んでしまうところはある。

ただ、自分が相手に強烈な恐怖を与えていることに全く気付かずに、それをついやってしまう、無意識にやってしまうこと自体がとても怖い。

無意識ということは、日常的にそれを活用しているからだと思うほかないからである。

つまり、自分や家族、職場といった身の回りでも日常的にダブルバインド的な「操作」をしてしまう可能性があるということだ。無意識に相手にストレスを与え、攻撃していると思えてならない。

さらに、それが「よいこと」であり、人として当然の責務であるかのように振舞っていることにも恐怖を感じる。

そして、自分自身もダブルバインドをしていないとは言いきれない部分があると、痛感した。

昔から、親から子へ、教師から生徒へ、上司から部下へ、ダブルバインドを使った操作が行われてきた。とくに子育ての現場では、ダブルバインドを多用しがちだといわれている。

自分にとって都合がいい結果になるように、簡単に仕向けることができるから、大人が楽なのだ。言うことを聞かない子ども、思い通りにならない子どもを操作するのに、便利だからだ。だから、ついつい使ってしまうのだろう。

無意識というのは本当に怖い。

これを機に、ダブルバインドについてじっくり調べることができてよかったと思う。

まさに人のふり見て我がふり直せ、である。

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