わたしが発達障害の診断を受けたのは、大人になり結婚し、仕事に就き、子どもを設けたあとのこと。社会的には「ごく普通の家庭を築き、仕事にも恵まれており、子どもまでいる、ありふれた人間で、何も困っていないように見える」だろう。もちろん、わたしも明日死に絶えるかもしれない状況だとは、全く思わない。
それでも、わたしは診断を受けた。発達障害の診断を受けることには「自己受容」や「障害受容」の意味合いが強いと、多くの方が語っていると思う。それは確かだと思うが、正直「自己受容のために診断を受けていいのか」という部分で、3年近く考え込んでいたのだった。だって…
発達障害は「本人の困り感」によって診断がつくもの。同じ特性をもっていたり、その程度が同じくらいであっても、本人が特に困っていなければ診断はされないのだという。
これって、すごく微妙な基準だと思う。そもそも発達障害傾向があれば「本人の困り感による」という曖昧な表現は理解しにくいことも多いので、余計に診断を受けてよいかどうか判断に迷うのではないか。
わたしが診断を受けた経緯
そもそも発達障害というものに注目し始めたのは、自分の母親がとても変わった人だったから。衝動的・攻撃的な部分があって、それによって親子関係がとても悪かった。
しかし「母は発達障害だったのではないか」と思ったら、すべての辻褄が合うように思い、そこでけっこう母親への嫌悪感が和らいだ。
そのあと自分の息子が不登校になりかけ、発達障害の可能性を指摘された。ここでもいろいろ悪戦苦闘したが、結果的に診断としてはグレーゾーンというところに落ち着いた。
そんな風に、自分と血縁関係にある周りの人たちのことを知ろうとしていく中で、わたしは「いや待てよ、わたしだってものすごく発達障害の特徴に当てはまっているし、今も昔も自分の扱い方がわかっていないではないか」と思った。
不登校や精神疾患の経験もあるし育児ノイローゼになりかけていたこともあった。自傷行為や自己刺激行動は今もやめられず、生理の前になるとうつになって希死念慮がやってくる。すぐにパニックを起こすし「世界は素晴らしい!わたしって天才」と思う日もあれば「もうダメだ動けないこの先どうしよう…」と思う日が代わる代わるやってくる。
自分がどこか一般的ではないことはわかっていた。でも、今書いたすべてのことは自分の中で、あまりに「当たり前」すぎた。自分の未熟さや努力不足でもあると思っていたし、他の人と比べて恥ずかしく思ったり情けなく感じたりもしていた。
一時はこれを幼いころの家庭環境や親子の関わり方が原因だとも思っていた。心の問題にぶち当たっていろいろ調べてみると、いつも「親子関係のトラウマ」だったり「インナーチャイルドを癒す」というようなことが出てくる。だから、ひたすら心の理論を学んで自分を受け入れてあげる努力をすれば、いつか改善される、「普通の人と同じになる」と思っていた。
でも、これがもし「生まれつき」だとしたら?
「もう頑張らなくてもいいのかもしれない」という期待
もしもわたしが、生まれつき脳機能に偏りがあるために「生きづらさ」を感じるのだとしたら。
これ以上心の理論を学び続ける必要なんてない。普通の人と同じになることを目指す必要なんて、まったくない。どこにあるのか、本当にあるのかもわからないゴールを目指して走り続ける必要なんて、ないということになるのではないか。
そう思った。
もともと一般的ではない脳みそを持っているのに、一般的な脳みそになると信じて意味のない努力をし続けている可能性があることに気づいた。
自分の脳みそが一般的なレベルなのか、特異な脳なのかがわかれば、一般的な人になるための努力をやめて、楽しいことや好きなことをする時間、気ままに過ごす時間に充てることができる。
わたしは「ここに埋蔵金が埋まっている」という間違いの情報を信じて、ひたすら穴を掘り、ありもしない埋蔵金をさがし続けているようなものなのではないか。
そんなことを思ったのだ。
診断を受けるには「つらさ」を認める必要があった
自分が発達障害の傾向を持っていることに気づいてから、実際に診断を受けるまでに3年近くかかった。それは「自分なんかがつらいと言っていいのだろうか」という気持ちが、壁となって立ちはだかったからだ。
確かに、生活していて大変なことなどいくつでもある。何に困っているかというと、結局全体的に自分の扱い方がわからないという、漠然としたものになってしまう。
だから、誰に何をどこから相談すべきかも、最初はイマイチよくわからなかった。
助けを求めることも、つらいと口にすることも苦手だった。「もっと頑張れるよ」「あなたは発達障害なんかじゃないよ」「みんなその程度の悩みはあるよ」と言われることが怖くて、誰にも相談できなかった。つらいけど、何とか頑張れる。楽しいことだってたくさんあるから、つらいことは見ないようにしていこう。それをずっとやっていた。
でも、30代に入ってから、突然いろいろなことができなくなっていった。これまでなんとかがまんできていたいたことも、耐えられなくなった。
体力や気力が続かなくなり、ちょっとしたことでキレたり泣いたり、衝動性が強く出るようになった。(こう書いているけど、昔からずっと変わらず同じである気もする)
ときどきやってくる希死念慮も、だんだんひどくなっている気がした。というよりも、もうそれに耐えるのが嫌になってしまった。
医師の口から出たのは「発達障害」
わたしは2度の能力検査・心理検査を経て、発達障害と診断された。
「脳波やMRI、血液検査の異常は見られませんでした。診断としては『発達障害』。聞いたことありますか?調べたりしたことは?」
医師はゆっくりした口調で話した。
わたしが「本を読んだり調べたりしたことはありますが、いろいろ種類があるので自分が何に該当するのかわかりません。はっきりした分類を教えて欲しい」と言うと医師は
「自閉性障害、いわゆるASDと、注意欠如多動症、ADHDです」
と言った。
なんだか、ピンとこなかった。これは現実なのだろうか。
よく、発達障害と診断されてホッとしたとか、診断を勝ち取ったような気になるなどの感想を耳にする。
ジュリー・ダシェ原作の「見えない違い/私はアスペルガー」という漫画でも、診断を受けたときに心の中で「やったー!」とガッツポーズする様子が描かれている。
わたしは、なんだか風呂の中の湯気の中で景色を見ているような気がした。(これは感情の認識が苦手なアレキシサイミアのせいかもしれない)
そのあとも数日間、「わたしは本当に発達障害なのかな」と自問自答し続けた。2度も検査を受けて、医師から直接発達障害と告げられても、まだ信じることができない。あまりに当たり前のしんどさが、障害だったというのをまだ受け止め切れていなかった。
「発達障害ということにすれば自分に言い訳ができるから、そうだと思い込もうとしているのではないか」という自責的な気持ちや自分への疑いが出てきてしまった。これはあまりに予想外だった。
診断を受け入れる決め手は「薬」だった
徐々に、発達障害の診断を受け入れられるようになった。そのきっかけはエビリファイという薬を飲んで感じた効果だ。
わたしは病院で、気分のムラが激しく自分自身の体調や気持ちについていけないことがいちばんの悩みだと話した。
それによるうつ症状もあったので、自分の頭の状態を安定させるために薬を飲んでみようということになったのだ。
処方されたエビリファイという薬は、ドーパミンの分泌バランスを安定させる抗精神薬。飲み始めてから効果が出るまでに時間がかかる、という話だったが、飲み始めて3日で明らかな変化を感じた。
気力や気持ちの切り替えがスムーズで、物事を淡々とこなせるようになった。今までは、集中するものごとの対象を変える度に激しいストレスがあった。
まるで、自分の集中力や注意力が粘着テープみたいにへばりついてしまうのだ。だから、次のタスクに意識を集中するまで時間がかかってしまい、ものすごく披露していた。
それが、パッと簡単に切り替えられるようになり、生産性が明らかに向上した。こなすタスクの量が上がったのに、疲労感が少ないのにも驚いた。
これも最初は、気のせいではないか、プラシーボ効果なのではないかと疑った。しかし、同じ発達障害の方が、わたしと全く同じ体験を語っている記事を見て、「やっぱり、わたしは一般的ではない脳みそをもっているんだ」と納得するに至ったのだ。
ちなみにわたしと同じ体験談を語っている宇樹義子さんの書かれた記事はこちら。32歳で発達障害と診断されて。服薬で激減したミス、睡眠障害――精神科を受診して変わった私のQOL
わたしと同じ32歳で診断を受けた彼女の体験談もぜひ読んでいただきたい。
発達障害の診断は、診断名以上の意味をもつケースもある
わたしの場合は、診断名そのものに大きな意味があったとはいえない。最初からASDもADHDの特徴も持っていることは重々承知していた。
しかし、今になって急に「生まれつき脳の発達が人と異なる」というのを簡単に受け入れるのは難しかった。医者の口から告げられても、まだ半信半疑だったのだから。
わたしは診断名を知りたいのではなくて「重い荷物を降ろしてもいいかどうか」を専門家に確認したかったのかもしれない。発達障害の特徴には「自分が納得できないことを受け入れて動くことができない」というものがあるから、特性の影響もあるかもしれない。
発達障害を知ってから、診断、納得、受け入れまでの一連の心の動向は、おそらく発達障害を持たない人にはわからないのではないか。
もっといえば、発達障害を理由に怠けたい、障害を言い訳にしたい人には起こり得ない感覚ではないかと思う。それが、自分自身の障害を裏付けているように思う。
診断を受けるべきか受けなくてもよいか、というのは自分で決めることだ。自分の特性を発達障害とするか、個性とするかも、ひとそれぞれなのかもしれない。
でも、大人の発達障害の場合は、今の悩みだけでなく、今までの人生すべての裏付けをとることでもある。今困っていることの大きさは、正直関係ないと思った。
「自分はそのままでじゅうぶん価値がある」
「ありのままの自分を受け入れる」
いままで、薄っぺらくて意味の分からない言葉だと思っていたこれらのフレーズが、いかに重要で意味のあることがようやくわかったような気がする。
ご質問失礼致します。お話読ませて頂きました。私もアスピーちゃんさんと似てる部分があり悩んでいたので、とても参考になりました。最近、私の主治医がエビリファイを検討しているみたいなので、すごくタイムリーでした。そこで、ご質問なのですが、
その時、エビリファイは朝と夕のどちらに服用されていらっしゃいましたか?
また、エビリファイは何mgの服用でしたか?
トモさん
ご質問ありがとうございます。そしてご返信が遅くなりまして申し訳ありません。
エビリファイ1㎎を朝飲んでいました。軽いものでしたが、すぐに違いを感じました。
ただ、喜びや楽しさも感じなくなりまして……いまは服用していません。
あくまでもご参考までに。