ときどき「ADHDやASD、HSPなどとカテゴライズすることに何の意味があるのか?」という議論がなされることがある。発達障害は個性のひとつであり、誰にでもある特徴が少し濃いだけ……という意見。
確かに、特性があっても現状こまっていないのなら、自分を発達障害にする必要はない。ただ、診断受けるべき?診断名よりも大事な「人生の裏付け」の記事でも書いたように、自分の生きづらさに名前をつけること、また何かに分類することで適切な対処法や、代案を考えることはとても重要だと思う。
個人的には、発達障害やHSPなどのように、自分の脳のタイプを分類したり、名前を付ける作業はどんどんやっていいと思っている。そのワケのヒントは「図鑑」にある。
生き物は、同じ仲間でもすべて違う名前がついている
わたしは子どもと図鑑を見ることが多いのだが、生き物の図鑑に書かれている分類の数は果てしないほど多いと思う。
今わたしの手元には魚の図鑑がある。スズキ目だけでもスズキ目スズキ科からスズキ目ベラ科まで、約12種類以上に「科」がわかれている。1つの科の中の分類も、さらにそこから数匹の種類に分かれて、それぞれ名前が付けられている。
魚も虫も鳥も、すべてがそうなっている。彼らは、自分が何科の何であるかなんてわかるわけない。というか、それは本能で知っている。人間のように、「本能やもともとの素養に反することを無理して行う」ということはできない。自分が自分であることを認識できない動物に、自分の分類を知る必要などない。
人間は、同じ「動物」でありながらも、自分が自分であるという自我や意識をもって、社会を形成する。人間こそ、本当は自分がどんな分類で、何の仲間で、どこに生息すべき人間なのかを知っておくほうがよいのではないか。
「わたしはスズキ目ベラ科のコブダイだから、昼行性なの。しかも奄美諸島や朝鮮半島南部でしか生きられないけどフライや味噌漬けにすると、絞まった身のおいしい味が活きるの!」と言える人が、どれだけいるのだろう。
発達障害やHSPの有無にかかわらず、自分のことをしっかり把握して、説明できたり行動や選択につなげられる人がどのくらいいるのだろうか。
発達障害の3分類やHSP、トランスジェンダーや精神疾患やパーソナリティ障害など、目に見えない「分類」はどんどん使っていってよいのではないか。個性という漠然とした単語で納得できなければ、より細かな分類を自分のアイデンティティに加えて、自分の世界を構築していけばよいと思う。
なぜ、魚や虫は事細かに分類するくせに、人間になると「個性」という簡単な言葉で片づけてしまうのか?と疑問に思うほどだ。
わたしは解剖学者の養老孟子先生が大好きなのだけど、養老先生は「自分の胃袋を知れ」と言う。
自分はどこまで飲み込めるのか、どこまでだったら消化できて、どのラインを超えると無理なのかということだ。若いうちは、そのあたりの加減がわからないことが多い。食べ放題の焼肉を調子に乗って胃袋に収め、気持ち悪くなってしまうようなものだ。
養老孟司が語る「個性的」になることの本質とは? 『「自分」の壁』を知るために|BusinessJournal
今の時代は、それをわかりやすい形でASDやADHDなどで索引ができる。図鑑の目次のようなものだ。
大多数の人と同じ感覚で生きて、大多数の人と同じ人生を歩むことを目標にしてしまった。でも、実際は少数派で、みんなと同じになろうとすればするほど、同じに慣れない部分が際立ち、できないことに目が向き、自信を無くしていく。
そもそも、人間にも多様な分類があって、それは複数にまたがることもあっていいとしたら、とても自由で豊かな人生設計や、自分の説明書が作れそうな気がしないだろうか。
分類による分断や争い
ただし人間の場合は、分類することによって批判や分断、論争が起こることがある。以前HSPの概念がブームになったときにもあったこと。「HSPならそんなことはできないはず」「あなたは本当のHSPじゃない」というように、カテゴリーの内部でも分断や争い、攻撃的な行動をみせる人はいる。
これは生物学上しかたのないことのようにも思う。仲間同士で殺し合いをする動物はいくつもいて、ライオンやイルカ、カモメ、ミツバチなどで確認されているという。こういうことが起こるのは当然なのかもしれない。
グレーゾーンはどうなるのか?
分類の重要性を話すと、どうしても「じゃあグレーゾーンの人はどうすればいいのか」という議論になると思う。わたしは診断名がついたが、息子は診断には至らないグレーゾーンということになっている。
しかし、わたしはグレーではなく「黒」と思うことにしている。つまり、ADHDでありASDであると考えている。その分類に近いと考えれば、息子に関するヒントが得られるという考え方だ。
また、友人で「自分の娘が書字障害ではないか?」と不安になっていたお母さんがいたので、わたしは「診断名にこだわらず、心配があるのであれば書字障害の学習方法を実践してもよいのではないか」と話した。(確かに大変なので、そこまでするかどうかは個人の判断によるだろう)
グレーにも「濃い」「薄い」があったりするわけで、わざわざ時間とお金をかけて診断を受けようと思う人は濃いグレーである可能性も高い。(ときどき、興味本位で検査受けたという人もいるが…)
なので、基本的にわたしはグレーの概念を自分の中で取っ払って対処するようにしているのだ。
診断名やカテゴリ名は「ツール」
本当の意味で自分を理解できたり、受容できたりすると、これまで自分のアイデンティティに加えていた発達障害や愛着障害、HSPや病名などのカテゴリーをそっと消していく人も多いように思う。
十分に自己受容ができてくると、もう自分の性質に名前が欲しいとは思わなくなる。そもそも、自分の胃袋を知れば、気持ち悪さ(生きづらさ)とは無縁になってくる。
年を重ねればその分、自分に分類や病名をつける必要性を感じないのだろう。もし年をとっても生きづらさを感じるのであれば、そのときは診断を受ければよいと思う。実際に40代以降で診断を受ける人も少なくない。
この世の中にある、ありとあらゆる研究学問は、どんどん利用すればよいと思う。それが社会的地位や名誉、金銭的な搾取のためでないのなら。(たまに、これらの当事者をうたってビジネス搾取をするケースもある)
社会的な損得ではなくて、あくまでも「自分の世界観構築」のために必要なら、診断やカテゴライズは重要な役割を果たすと思うのだ。
わたしは、15歳のときから精神医学や心理学に興味を持ち、そこからずっと自分とは何者なのかをさがしていた。もっと、他の趣味や楽しいことに時間を使えばよかったのだが、それがどうしてもできなかった。自分が何なのかわからなかったし、マジョリティの人達と同じように生きなくてはいけないと思い、それを目指して自分を矯正することに時間と頭を使っていた。
それは、決して無駄だったわけではないが「もうそれをしなくてもいい」と自分に許可を出すために、診断を受けたのだと思う。結局、診断名やカテゴリー名はツールだ。便利に、より自分の最適解に辿り着きやすくするための目次、索引なのだ。
診断名を、社会保障につなげる人もいれば、わたしのように自己受容に使う人もいるというだけ。傘を日よけに使うか、雨除けに使うか……みたいなことなのではないか、と思う。
発達障害や特性の分類には大きな意味がある
発達障害やHSP、トランスジェンダーや病名などの分類には大きな意味があると思う。個性では語りきれない自分の人生があるからだ。
もっと早く知っていれば……
もっと自分を理解してくれる人がいれば……
そんな風に思うときの気持ちは、本当にせつない。だから、自分の人生にとってプラスになるのであれば、カテゴライズや診断名などをツールとして使っていけばよいのではないかと思う。