以前、わたしは予定を入れるのがストレスになっていた時期がある。予定を入れるのがストレスとは、どういうことか。
たとえば、人と会う約束をしたんだけれど、予定していた日に近づくにつれて、どんどん憂うつになっていく。
約束したときは「行ってみようかな」「楽しそうかも」と思っていたはずなのに、時間が経過すればするほど億劫になっていく。
だんだんと、約束の日が「迫ってくる」ような感じがしてきて、最悪の場合は前日や当日にドタキャンしてしまうこともある。そんな感じだ。
このような現象は数年前まで、わたしの日常に頻繁に起こることだった。
あの迫ってくるプレッシャーと、どうやって断ろうかと考えるストレスがつらすぎて「もう人と会うのはやめよう。一生他人とと遊ばなくてもいい」と思ったりすることもあったほどだ。
しかし、気が付いたらそれがきれいさっぱりなくなっていた。
楽しいはずの予定も「やらなければいけないこと」だった
昔の自分にとって、楽しいはずの予定も、スケジュールに組み込まれた時点でやらなければいけないタスクだったのだと思う。
そして「やらなければいけないタスク」と感じてしまうのは、その当日の流れに「わからないこと」が多かったからではないかと思う。
約束したはずの予定は、常に頭の隅にある。それは今でも変わらない。
しかし当時は、約束当日のイメージをグルグル頭の中で展開してしまって、苦しくなっていた部分があった。
何を着て行けばいいのか、約束の時間につくには何時に家を出るべきか、交通手段は何が適切か、解散は何時ごろになるのか、お昼ご飯はどこで食べるのか……というのを、脳が勝手にイメージする。
でも、実際はどうなるのかわからなくて延々と考えてしまう。結果的に「1日の流れがどうなるのかわからない、イメージが決まらない」という感じで、不安だった。
約束した相手は、安心できる相手だったかどうか
コロナ禍、親しくない人との約束を全くしなくなった。感染状況が落ち着いてからも、どうしても会いたい人としか会わなくなった。
すると、人と会う約束をしたのを後悔したり、予定が迫ってきてストレスに感じたりすることはなくなった。
そもそも、こもりきりの生活になったことで、人と会うのが「息抜き」や「気分転換」に変化したのかもしれない。これまでは、ひとりの時間や家で過ごす時間が自分にとっての「息抜き」「充電」であった。しかし今まで世間では、人と合って楽しい時間を過ごすのが息抜きや充電になる、という認識の方が強かった気がするのだ。
コロナ禍によって「外に出て人に積極的に会う生活が好ましい」みたいな世間の風潮は一切なくなった。それも大きな要因だと思う。
でも、やっぱり「あの頃、約束していた相手は、本当に安心できる相手だったか」というと、そうでもないような気がする。
相手のことをよく知らなかったり、自分が相手を楽しませなくてはいけないと思っていたり、相手に一生懸命合わせようと必死だった。
だから、わたしは一生懸命当日のイメージを頭に描いて、シミュレーションしていたのだ。
しかし当日のイメージが湧かなかったり、自分がどう振舞うのが最適なのか考えても正解が出ない。
するとだんだん不安とプレッシャーで押しつぶされて「もう、行きたくない」「ドタキャンしてしまおうかな」という思考に陥っていたのではないかと思う。
そもそも、本当に「行きたい」と思ったか?
ここでもうひとつ疑問が湧いてくる。深層心理では「相手に合わせなければ」「自分が相手を楽しませなくては」と思っていたのだすれば、約束したときに「行きたい」「楽しそう」と思ったのは、果たして本当だろうか?
わたしはアレキシサイミア傾向があるので、感情を即座に自覚できないことがある。マルチタスクができないので、人との会話の中ではとくに瞬間的な感情認識は難しい。
しかし、アレキシサイミアは、感情がないわけではない。感情を自覚するまでにタイムラグがあるのだ。
だから、約束をした後になって、ジワジワと本当の自分の感情が湧いてくる。だからこそ「やっぱり行きたくない」「約束しなければよかった」という後悔が生まれるのだ。
それに加えて、受動型のASDは「人に従ってしまう」という特性がある。自分の意思を上手に伝えられなかったり、断るタイミングややり方がわからなかったりする。だからこそ、人からのお誘いに対して30%程度しか賛同していなくても、従う方を選択してしまいがちなのだ。
わたしは自分のこの性質を知ってから、人からの誘いは少し時間を置いて返事をするようにしている。そのおかげで今は、自分でいれたスケジュールにストレスを感じるということがほとんどなくなった。
行くのは、本当に自分が行きたいと思ったときだけ、本当に会いたいと思った人だけ、本当に安心できる人だけと、会う約束をするようになったのだろう。
ASDの「人に従ってしまう特性」については「アスペルガー(ASD)は人の悪意がわからない?|体験談と対応パターン」のなかでもでも触れているので読んでみて欲しい。
何事も「性格のせい」とは限らない
わたしは、自分でいれた予定に苦しめられたり、予定を入れたことに後悔したりしてきたが、
それをずっと自分の神経質な性格のせいだと思っていた。それは確かに一理あるが、それだけではない。本当はそこまで気乗りしない誘いに乗り、相手に合わせ、自分よりも相手を楽しませなくてはいけないのだと信じ込んでいたのも大きな要因だったと思う。
神経質な性格なうえに「人に会わせなければならない」「自分がしっかりしなければいけない」「相手を頼ってはいけない」というような、様々な禁止ルールを課していたんだと思う。
それが近年のコロナ渦や、自分の特性理解でさっぱり削ぎ落された気がする。