大人の発達障害

怪我が多いのはADHDのせい?失敗体験から学んだ深層心理

今日はちょっと凹んでいる。昨日、自転車で転んでしまい、あごを縫合した。たぶん3針もいっていないけど、けっこうダメージを受けた。

わたしは感覚鈍麻もあるので、怪我の痛みそのものはそこまで感じない。でも怪我をしたショックや恐怖というのはある。

「もしこうなっていたら、もしああなっていたら…」と不安が膨らんだり、周りの人に心配をかけたり、自分の怪我のせいで周りに迷惑かけてしまうとか。

そういうことが気になって、すごく疲弊した。

わたしは普段から怪我が多い。怪我といっても、普段はちょっとだけ包丁で指をきってしまうとか、頭をどこかにぶつけてしまうとか、階段をちょっと踏みはずしてしまうとか。

昔から「もっと気をつけなよ」「もっとゆっくり慌てないで動けばいいのに」「また怪我したの?」とあきれられることが多かった。

でも、その気をつけ方がわからなかったり、怪我をしない動き方がわからなかった。足にはいつも痣があって見てくれが悪い。

自分にとって足の痣などほくろのようなものだけど、人からは「どうしたのこれ!?」とびっくりされやすい。心配してくれる気持ちすら面倒に感じるほど、小さな怪我はあたりまえなのだ。

しかし、さすがにあごを針で縫うほどの怪我になると凹む。何やってんだろうと、情けなくなる。あごから血をダラダラ流して、息子たちをオロオロさせている自分、何なんだろう。

子どもたちに散々「前を見て!」「危ないよ、気を付けて」って口うるさくしていたくせに、その自分が誰よりもド派手に転んで流血するなんて。やっぱり凹む。

ADHDは「自分のボディイメージ」がつかみにくい

言い訳するようだけれど、ADHDは自分のボディイメージを掴むのが苦手なので怪我をしやすいといわれている。

自分の体がどのように動いているかイメージできていなかったり、周囲の人や物との距離感がつかめなかったりする。

なので、ぶつかったり、無理な動きをしてしまったりするので、怪我や事故の経験が普通よりも多いとされているのだ。

怪我とまではいかなくても、日常で自分のボディイメージがつかめないことからくる小さなストレスはたくさんある。

  • 人にすぐぶつかってしまう
  • 人の足を踏んでしまう
  • 避けたつもりでも避けきれない
  • コップが口につく前に傾けてしまう
  • 振り返ったりものを置いたりするタイミングがずれる(結果ものを壊したり、割ったりする)

などなど、思い浮かぶだけでもいろいろある。

特に人とぶつかったり、人の足を踏んだりすることでは家族にも大変迷惑をかけ、若いころは喧嘩の種になりやすかった。

「なんでいつもいつも足を踏むの!?気をつけてよ!」と怒られ「踏もうと思って踏んでるわけじゃない、わかんないんだもん!」と怒ったり。

衝動性が怪我の原因になることもある

わたしの体感としては、ボディイメージだけでなく「衝動性」も怪我の一因になっている気がする。

たとえば「たくさんの物をいっぺんに運びたい」という気持ちを抑えることができず、明らかに無理な量の荷物をいっぺんに持ってしまうとか。

こうなると前がよく見えなくなったり、無理な体勢になったりするので怪我や事故につながる確率は当然高くなる。

他にも「早く次の作業に移りたい」という気持ちが強くて、確認作業を怠ってしまうこともある。

料理をしているときに、早く次の作業に移るために鍋の取っ手の温度を確認しないまま持ち上げてしまって、けっこうな火傷をしたことがある。

ゆっくり、落ち着いて、焦らず、ができないのだ。

頭の中がとっ散らかっていて、大事なことが抜け落ちていて、今確認すべきこと、がまんすべきことの優先順位をつけることができない。

どれもこれも全部自分の蒔いた種だから、行き場のない悔しさを抱えるしかない。

けがや事故などの「失敗体験」の多さで自信をなくす

久しぶりに大きめの失敗をしてしまい、激しく凹んだ。

普段は、自分の小さな怪我やミス、失敗は「大したものではない」「わたしの失敗など、わらいばなしだ」と思って、ネタにしていたりもする。

でも、ときどきシャレにならないような怪我をすることがあって、そういうときに「自分の怖さ」を感じるのだ。

わたしは自分の身を守ることができないんじゃないか、子どもたちの安全を守れないのではないか、わたしの不注意がいつか重大な問題を引き起こすんじゃないか。

わたしはいつか事故で突然命を失うのではないか。

そういう恐怖が一気に浮かんできてしまう。発達障害の失敗体験は「さまざまな自分」に対する自信を奪っていくことがあると思う。

怪我のショックに加えて「怒られる恐怖」が強い

ADHDは子どものころから怪我や失敗が多いので、昔からたくさん叱られてきた。

「そんなことするから怪我するんだ!」

「気を付けていないからだろう!」

「もっとゆっくり動きなさい!」

と、叱責の連続だった。

親はきっと、びっくりして気が動転してそういう言葉をかけたのかもしれない。心配やケア的な心がないわけではなかったと思う。

でも、わたしは昔から怪我をするとそれを隠すことが多かった。怪我の痛みよりも、怪我をしたことで叱られるほうが怖かったからだ。

その気持ちは今でも抜けることがなくて、昨日も怪我をしながら「大丈夫大丈夫」と言って夕飯を作った。

このまま夫に知らせず一人で救急病院に行こうか。もしかするとこのまま治るかも…などとぐるぐる考えた。

「何をやっているんだ」と叱られたくない「失敗を人に知られたくない」という気持ち。その気持ちが強くて、怪我をしたことを誰にも言いたくないのだ。

しかし実際の怪我はけっこうひどくて、怪我をしてから2時間経っても血が止まっていなかった。息子に「血が止まってない、早く病院に行け」と促されて、そこで初めて病院に行くことを決めたのだった。

『怪我した→怒られる・批判される恐怖→誰にも知られたくない→怪我の程度を正確に把握しようとしない→怪我悪化の危険』

わたしは完全にこじらせているしこのままではいけないと、心底思った。怪我云々ではなく、その後の対処の仕方や考え方が歪んでいることに気づいた。

不注意の多さだけでなく、失敗体験の多さを見つめ直す

もちろん、自分の何がいけなかったか、どこに意識をもっていくべきかという不注意を振り返って改善していくことも大事だと思う。

「こういうときは失敗しやすい」「このパターンで失敗したことが何度もあるな」と気づいて、自制をかけるなど。そうすれば、大きな失敗はだいぶ減らせるように思う。

毎日大けがしているわけではない。今回はたまたま大きな失敗をしてしまっただけ。発達障害だのなんだのも、ここでは関係ない。誰だって怪我はするものだ。

いろんなことが重なったんだ、命があってよかったし、大事に至らくなてよかったと思うべきだろう。

しかし、見つめ直すべきは「失敗を責められた経験からくる、認知の歪み」だと感じた。隠すことや平気に見せることに必死で、自分の気持ちや痛みにまで気が回らなかった。

それに失敗したことを隠したい、人に知られたらまずいと思うことで、さらなる悪化につながってしまう。

今度は、怪我したことや失敗したことが見つかって叱られたり、「なぜ言ってくれないの?」と詰められる可能性も出てくるわけだ。相手を悲しませることにもなる。

嘘に嘘を重ねるほど、よくない結果を招くようなものと似ている気がする。

だから、わたしは今回の失敗で「怪我や失敗を振り返ることも大事だが、それを隠さず適切な対処をすること」への努力が必要だと思った

わたしが失敗しても、本当は誰も怒ってなどいないし、誰もわたしを責めてなどいないんだということを、よくよく知った日だった。

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