わたしは自己完結型の人間だと思う。
自己完結とは「それだけで一つのまとまった世界を形作っていて、内部に何ら矛盾も欠けた所も無いこと(広辞苑)」「何かの物事について、自分自身の中だけで納得したり決着したりしているさま(weblio辞書)」などとある。
自己完結は、しばしば否定的な意味で使われることが多い。
「あの人は自己完結ばかりで協調性がない」「そうやって自己完結しないで相談してくれ」というような感じ。
社会生活を送る上では、自己完結型の人間は人間関係でトラブルを起こしやすくなるようだ。わたし自身にも身に覚えがある。
だからこそ「自分の中だけで納得したりものごとを決めたりしてしまって協調性がない」という風に使われることが多いのかもしれない。
ただ、自己完結型を自覚するわたしとしては「それだけでひとつのまとまった世界を作っていて、内部に何ら矛盾もかけたところもない」という方がしっくりくる。
アスピーは自分の世界に意識が向きやすいせいだろうか。
自己完結は、頭の中の綿密な計画や思考の強さ
自己完結してしまうのは、頭の中での計画や思考が非常に綿密だからだ。日常の些細な行動スケジュールから、ちょっとした疑問への答え、悩みの解決まで。頭の中では常に膨大な数の情報が行きかっている。
しかし情報の密度が多すぎて、それを人に伝えたり相談したりする「余白」がないことも多い。それが対人間の行き違いやトラブルに発展してしまうこともあるのだろう。
「綿密な計画と思考が頭の中を行きかっている」のは大変よいことのように聞こえるかもしれない。しかし、よいことばかりではない。
常に頭の中が情報でいっぱい。それに加えてその行き来が激しい。まるで交通量の多い通勤時間帯の交差点みたいだ。
ASDは、自分の気持ちや状況を言葉にして伝えるのが苦手なことも多い。(思っていることが全部口に出る人もいるが、逆に言葉にするのが苦手なタイプも多い)
「人に報告する」「相談する」という選択肢が取りにくい
朝の通勤ラッシュのように膨大な情報が行き来し、ひとつの計画や思考を組み立てている。そんな状況下で、苦手な「言葉にして伝える」ことをするのは難易度が高い。
他人と自分の境界線を忘れやすい
また、ASDは人との距離感がわからないのも特徴だ。他人と自分の境界線が曖昧で「自分が考えていることは相手も考えていること」と錯覚しやすい。
「他人と自分は違う」「自分が考えていることを他人も考えているわけじゃない」ということを、忘れてしまうことがあるのだ。(あたまではわかっているのだけど、意識しないと気づけないという感じ)
すると、自分が導き出したひとつの結果だけをいきなり相手に伝えてしまう。しかしASD本人は「完璧な計画」「ひとつの矛盾もない」と感じている。
だって何しろ、膨大な情報から導き出した最適解なのだから。
しかし相手からすると「は?なんで勝手に決めるの?」「どういうこと?」と理解不能になってしまう。
自分の中では完璧なのだけれど、他人からすると理解不能。これは、コミュニケーション上のやりとりだけでなく「自分の考え」や「感覚」といったものでも、同じ現象が起こると思う。
自己完結の体験談①何でも自分だけでやろうとする
わたしは自己完結して動いてしまい、人とトラブルになることがよくある。たとえば「何かを勝手にやってしまう」ということ。
ある日、古くなった家具を捨てようと思い立った。もう汚れているし、あまり活用していなかったからだ。その処分の方法や日程、手順などがすべて頭の中で展開されていく。そして家族に相談したり、協力を要請することなく、自分で決行してしまった。
しかし家具を車に乗せるときに、誤って車を傷つけてしまった。これは報告しなければマズイ。隠し事や嘘はいけない。
しかし、そこで家族は車の傷どうこうではなく「なぜ家具を処分することを相談しないのか?」「なぜ一人で全部やろうとするんだ?」と不思議がられ、怪訝な顔をしていた。何しろすべて自分でやろうとして失敗しているのだから。
自己完結の体験談②勝手に計画を立てて激怒する
わたしは外出するときの時間にものすごくこだわってしまう。
「〇時に目的地に着くには、〇時までに身支度を済ませて、〇分間で残りの家事をやって〇分には玄関を出られるようにしなければ」という具合に、かなり緻密な計画を立てている。
ただ、これは自分の頭の中だけで行われている計画だ。周りの家族はそんなこと知らない。今日は〇〇に行くという事実と、「大体何時ごろ」という感覚しかないことも多い。
しかしわたしは「自分が思っていることは相手も思っていること」と勘違いしてしまうようで「〇時に行くって言ったじゃん!もうこんな時間、なぜ出発しないの!支度もできてない!」と大騒ぎしてしまう。周りの人は、何を言っているのか意味がわからないだろう。
自分で考えた計画やストーリーイメージが完璧すぎて、そこに意識が向きすぎるために「相手の視点」がすっぽり抜け落ちることがある。
とくに「いつもと違うこと」をするときは、不安や緊張で余裕がないのでこういうことがおこりやすい。(ASDについて発信しているロココさんのブログにも全く同じエピソードが書かれている)
自己完結のトラブルを避けるには「相談の仕方」を模索すること
わたしは「相談の仕方」を学んでこなかった。仕事でも家庭でも「人に相談すること」は大事だ。それは十分にわかっている。
しかし、そのタイミングがわからないことも多い。
相手の視点がすっぽり抜け落ちる場合もあれば、相談するタイミングや、何をどう相談するか考えているうちに、面倒になって事後報告になることもある。
基本的に「やる前に相談する」ということが苦手である。相談する必要がないと思っていることもあるし、相談したくてもうまいやり方がわからないこともある。
「人に相談するために、まず自分と相談する」が必要だし、それで疲れ果ててしまう。
もしくは「相談すべきだったのに自分だけで勝手に進めてしまって、かえって相手の手間をとらせる」の両極端になりがちなのだ。
「相談の仕方」は教えてもらえない。「何でも相談しましょう」「困ったことやわからないことがあったら相談してください」というのも、なんだかマークや記号のように見える。「これよく見かけるマークだけど何のマークなんだろう」という感じに見えたり聞こえたりするのだ。
「人に伝える」ことは少しずつ学んできた。自分の気持ちや状況を人に伝えること(文字ではなく口頭で)、事実を人に伝えることは、少しずつできるようになっている。
でもそれは「一方的」で自分→相手でしかない。
相談とは自分と相手の双方向のやりとりである。この双方向のやりとりを、何気なく自然にできる人もいるだろう。
しかし、やり方を意識的に習得しないとできない人もいるということだ。
事後報告・自己完結型なのが自分である
仕事や対人関係のトラブルや揉め事を避けるには、やっぱりトレーニングが必要だろう。
でも、それ以外のことはすべて自己完結・事後報告でも問題ないと思っている。
だってそれが自分なのだから。
わたしも昔からたくさんの人に「何で言わないの?」「聞いてないよ!」とよく言われてきた。でも「自分の判断で、言う必要がなかった」という理由しか出てこない。
「言う必要ないかなと思って」と言うと
「ひどい」「寂しい」「冷たい」という印象を与えて、相手をがっかりさせることもある。
でも、間違いなくそれが自分なのだ。
「この人はそういう人」と思って付き合ってくれる人でなければやっていけないだろう。
言いたくないことも言わなければいけない、言う必要がないと思っても、相手が寂しさを抱かないように逐一報告しなければならないのだとしたら、それこそ「他人軸」になってしまうのだ。
自己完結型であることが悪いのではなく
「自己完結でよいことと、まずいこと」
「事後報告でよいことと、まずいこと」
この分別を少しずつ学んでいくとよいのかもしれない。これもASDが得意なパターンとルール化が役立つだろう。
初めまして。ネットで自己完結について調べていた所アスピーちゃん様のブログを見つけました。
思考が私と全く同じで驚きました。
ここ最近私は他人と何かが違うような気がしていました。
両親に「お前は人の気持ちを考えるのが苦手」「ロボットみたいなところがある」「何考えてるか分からない」「きちんと伝えて」と言われてしまいました。
しかし、本当にアスピーちゃん様と同じで自己完結してしまっているので、結論「別に言う必要ないな」になってしまいます。それで現に揉め事になってしまっています。
フリーズの記事も拝見しました。
本当に全て同じで、両親から言われた言葉もフリーズに至るまでの思考回路も全て同じでした。
自分だけではないんだという安堵?といいますか、嬉しさのようなものすら感じています。でもこれはきっと治していくべき事なんですよね、、、。
私は病院で診断など受けに行ったことが無いのですが行っておくべきでしょうか?
お忙しいと思いますのでご返信なさらなくてもかまいません。
ただ同じ方が居て本当に嬉しかったもので、、、長文コメント失礼しました
波さん
はじめまして。コメントありがとうございます。
治していくべきこと、ではないと思います。
というか、これが自分の思考回路なので治るものではないです。
こういう自分でもうまくやれる方法や、相手について
自分なりに考えていくしかないと思います。
「病院に行くべきか」の判断はできません。
フリーズも自己完結も、薬で治るものではないので、自分の思考回路を自分がよく理解することです。
自分が発達障害の特性を持っているのか、客観的に判断してもらうには知能検査などを受けるのもひとつの方法だと思います。
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