精神的な気づきや発見は、人間にとって脱皮のようなものだと思っている。実際に脱皮という言葉には2種類の意味がある。
ひとつは生物が古い皮を脱ぎ捨てること、もうひとつは人間が、古い考えや習慣を捨て去ること。
わたしは古い考えや習慣を捨てるためには、まず何かしらの気づきや発見がなければならないと思っている。
人から言われたから、みんながそうしているからという理由ではなく、自分の中で体感した出来事や感覚によって「もうこのような考えは捨てよう」とか思うわけだ。
個人的には古い考えや習慣を捨てることが脱皮なのではなく、大きな気づきを得てハッとしたり、「なるほど!」と理解したりすることも、脱皮の一種だと思っている。
頭の中に大量の情報が飛び交っていて、常に何かを考えている人間だ。
そういう人間にとって、気づきや発見、納得などは一種の新陳代謝のようなものだと思う。
アマガエルは成長のためではなく、新陳代謝のために脱皮をする
一般的に、生物の脱皮というと成長のためだと思いがちだ。しかし、アマガエルをはじめとするカエルの多くは、薄い皮を何度も脱ぎながら生きる。
しかもその薄皮を自分で食べてたんぱく質を摂取している。
セミやカブトムシのように、脱皮を経て立派な大人になるというわけではない。日々、軽い脱皮を繰り返し、自分の身体から出た皮で栄養を補うのだ。
これを知ってわたしは、まさしく自分のやっていることと同じだと思った。
わたしは脳内で行きかう情報から、ひとつの筋道を導き出すし「驚き」や「納得」を感じる。
これがアマガエルでいうところの薄皮を脱ぐことにあたる。そしてわたしは、自分で発見したことや納得したことを、今後一つの情報として使っていくだろう。
アマガエルが自分の脱いだ薄皮を食べて栄養を補給するのと同じである。
新陳代謝とクリエイティブ
脳内の情報量が多い人、常に考えごとが頭の中を駆け巡っている人は、より多くの新陳代謝が必要になる。
だからこそ「表現」することが必要なのかもしれない。
考えを書いたり、話したりするだけでなく、絵を描いたり作品を生み出したりする創作活動をして、頭の中を体外に出さなければ生きていけないのではないか。
クリエイティブという言葉を使うと、何か特異なセンスが必要に感じたり、並外れた創造力画必要なように感じてしまう。
クリエイターなんて言葉があるから、それで飯を食えなければいけないとか、人気作家やアーティストでなければならないとか、そんな風に思いがちだ。
しかし、わたしにとってクリエイティブとは新陳代謝でしかないと感じる。頭の中にいっぱいになった情報を、何らかの形にして出す。
古い情報と新しい情報をつなげて整理して、ひとつの結論を導き出して外に出す。
自分が外に出したものは、自分以外の誰かの目に留まることもあれば、誰かの手に渡ることもある。誰かの役に立つこともある。そして、未来の自分に役立つこともある。
それはアマガエルが新陳代謝のために脱皮を繰り返し、脱いだ薄皮を食べながら生き続けることと全く同じ現象ではないかと思う。
アマガエルは、そうしないではいられない、生きられない。
人間も同じで、新陳代謝のために何かを作り、生み出さないといられない種がいるということだ。
頭の新陳代謝をする種
もちろん身体の新陳代謝も重要だが、頭の中の思考、感情、情報の新陳代謝も重要であると考える。
おそらく「精神レベルを上げる」「人間の成熟度を高める」など、そういう言い方をする人たちと、わたしが感じているこの感覚は同じだと思う。
でも、わたしは「レベル」という言葉をあまり使いたくない。それに数値化できないことを「成熟度」と言っていることにも矛盾を感じてしまう。
積極的に頭の新陳代謝をする人が好きだけれど、それはこの特徴が他の人よりも優れているからではないと思う。新陳代謝の頻度や度合は、人によって違う。
好きな人は、ただ自分と同じ種だというだけの話だ。精神的な脱皮とは、特別なことではなく日々のターンオーバーにすぎないのだろう。