わたしは言葉をとても大切にして生きている。
昔からそうだっただろうか。10代の頃はそこまで言葉にこだわることはなかったかもしれない。悪い言葉を使うこともあったし、ネットスラングのような「言葉遊び」を楽しんだこともある。
しかし、言葉が自分にとって重要なツールだとわかり始めたころから、わたしは言葉をとても大切にするようになった。
若いころの「コミュニティ」はとても小さかった。たとえば学校。学校というコミュニティはとても小さく、そこにいる人たちの属性がとても限られた場所だった。
学校の中にも、よく話す人や仲良しの人というさらに小さなコミュニティがある。その中だけで使われる言葉を集めて、覚えて、しかるべき時にそれを使えばよかった。正直、使う言葉はとても限られていた。
しかし、大人になってからはどうだろうか。属性の違う者同士が自由に話をするようになる。職場や子育ての場、地域活動、趣味の集い、はたまたSNS……。たしかに小さなコミュニティはあっても、使用する言葉の種類というか、幅がぐんと広がって、無限大になったような気がした。
どんな言葉を使えばいいのか、急にわからなくなる。悪い言葉や汚い言葉を使わなければいいというわけでもなく、丁寧な言葉を使えばいいというものでもなくなる。
大人になってから、わたしは「言葉」に悩まされることが多くなった気がする。
丁寧すぎる言葉づかい
20代前半の頃、わたしはとあるサークルの主催者の方に電話で連絡を入れた。しかし主催者の方は電話に出なかったので、留守番電話を残した。
留守電を聞いて折り返しかけてくださったその方は、わたしに開口一番こう言った。
「申込のときに21歳だって聞いたんですけど、ずいぶん丁寧な話し方をされますね。ちょっとそこにびっくりしてしまって」
わたしは「そんなことはどうでもいいことだ」と少し不服に思った。
わたしは、申込のことやサークルの活動のことを知りたいのに、なぜわたしの話し方ついていちいち言われなければいけないのかと不服に感じた。(褒められているのにも関わらず嬉しいとは思わなかった)
しかし、わたしがあまりにも丁寧すぎる言葉遣いをしたことで、相手の方が不思議に思ったのは事実だった。
正しい言葉を使うのが正義だと思っていた
わたしは「正しい言葉」を使うのが正義だと思い続けていた。
たとえば、友人知人ではない目上の人に対しては「了解しました」ではなく「承知しました」を使うというルールにわたしは過剰にこだわっていた。
正直、仕事や活動などの公式な場(プライベートではない場)では、多くの人がリーダーや主催に向かって「了解しました」とメッセージを送っていた。わたしはそれが気になって気になってイライラしていた。
正しい言葉を使ってほしい、使うべきだと思っていた。ましてや、LINEスタンプで返すなんてもってのほか。相手が文章で送ってきたのなら、文章で返すが通義とまで思っていた。(今は了解ですも使うし、LINEスタンプも使えるようになった)
でも、わたしと同じように考える人はほとんどいなかったので、ストレスはどんどんたまった。
気心の知れる人にそのことを話してみたが、その人さえもわたしのこのこだわり発言に「?」となり、若干反応に困っていたようだ。(当時はそのことにも気づかなかった。今思えばあれは反応に困っていた)
また、夫がときどき言葉を言い間違ったり読み間違えたりすると、わたしはすかさずそれを指摘する。
「知らないと恥ずかしいでしょ」という親切心で指摘するのではない。間違った言葉を聞いているのがただ気持ち悪いからだ。
わたしの若かりし頃の「言葉へのこだわり」は、その言葉が通じるか通じないかではなく「気持ちが悪い」「気になってしまう」というだけだった。
わたしにとっての言葉は「唯一の手掛かり」
わたしにとって言葉は、この世の中を知るため、この世の中を生きるための「唯一の手掛かり」そして自分自身の世界観を構築するための「唯一の手段」である。
多くの人がなんとなく理解することも単語で理解する。自分を理解するにも、社会や他人を理解するにも、言葉を使う。
みんなそうなのかもしれない。基本的に思考は言葉の羅列だ。
ただ、人との何気ない会話がそれほど苦しくないのであれば「了解」と「承知」のどちらが正解かを気にすることはないだろうし、丁寧な言葉遣いを褒められれば、嬉しいと感じるのではないだろうか。
しかし、言葉にこだわる人は、世の中の8割の人が「どうでもいいこと」を、生きる手綱としている場合があると思う。
人の中で生きるということは、人のことを理解しなければいけない。自分が人である以上、自分を理解しなければならない。
言葉がそれほど重要ではないと思えば、他の人が少しくらい言葉を間違えていたって、気にしないかもしれない。いちいち訂正しないかもしれない。
その辺は、言葉を重要視しない人になったことがないので正確なことはわからないけれど。
とにかく、わたしにとって言葉とは、生きる手綱なのだ。
言葉をコレクションして保管している
そんなわたしは、言葉を集めて保管している。別にすごく記憶力がいいとか、人よりたくさんの言葉を知っているわけではないと思う。
文章を書く仕事柄、平均よりは語彙が豊富かもしれないけれど、それは仕事のためではない。
自分の世界観を作りあげるときに、言葉が必要になることがあるからだ。
たとえば、自分が「今の仕事を続けるべきか、やめるべきか」を考えるときに「絶対評価」「相対評価」という言葉を耳にしたとたんに「あ、なるほど」と処理が進んだりする。
自分の頭の中の処理に有効だった言葉はどんどん自分のデータベースに追加されていくのだ。
まるで、工具箱のなかにネジや釘が種類ごとに仕訳けられているかのよう。「これに使えるのはこの部品とこの部品」「ここに使うのはこの単語とこの単語」という風に。
脳内にきちんと収納されているような感じがする。
あくまでも脳内イメージの話なのだけど、すべてが素材であり材料、パーツなのだ。
「この単語がいいかな、ちょっと違うかな」とあてがってみたり「ここにはこの単語しかない!」と直感でキマルときもある。
つまり、わたしは言葉を常に集めて整理して保管しておいて、材料のように自由自在に出し入れできるということ。
言葉にこだわることが強みになっている
人とのコミュニケーションでは、その工具箱のなかの言葉を自由自在に使ってよいわけではない。
自分のコレクションにあったとしても、相手のコレクションになければそれは「使えないパーツ」もしくは「効果的でないパーツ」になるようだ。
自分がいくら気に入っているパーツでも、相手がそれを嫌うこともある。だから、人との会話はとても気を遣う。
自分の頭の中には膨大な言葉のコレクションがあるのに、どれを使えばよいかを探しながら話す必要があるからだ。
大体この人と話すときはこのサイズなら大丈夫、この人はこの形のものなら大丈夫、というように、目星をつけて言葉を選んでいるのだと思う。(これはASDの模倣や擬態にも関係があるのではないかと思う)
そのぶん、自分のまんま、自由に言葉を使えるシーンが少ない。
だからこそ、こういう「文章」という場所で自由に自分の内面を出しているのかもしれない。
とすれば、言葉にこだわること、言葉のコレクションが多いことは確実に強みになっているのだろう。