女性のASD

こだわりの押しつけ|発達障害をもつ人が陥りやすいこと

ここ最近、ちょっと気になることがあった。夏休みで子どもたち2人がずっと一緒に遊んでいるんだけど、その2人のやり取りがいちいち気になる。

長男は中学生で次男は小学生。年の差が5歳あるので少し年齢が離れているんだけど、長男の次男に対する言葉が気になる。気になる。気になる。

落ち着いて考えてみると、一般的な、今どきの、中学生の言葉遣いなんだろうと思える。

しかしわたしには、言葉に非常にこだわる特性がある。

するとわたしは兄弟の会話の一言一言に引っかかってしまう。

とくに男の子は少々荒い言葉を使うことも多い。わたしはそこで「そんな風に言うべきではない」「それはあなたの主観でしょう」という具合に、注意することがある。

正直これでもだいぶ抑えている。言いたいのを我慢しているけど、我慢できなくなったときにはやっぱり注意してしまう。2人の間に入っていってしまうのだ。

これは「こだわりの押しつけ」であった。

こだわりの押しつけとは

こだわりの押しつけは、その名の通り、自分のこだわりを相手に押し付けること。「これはこうでなければならない」「こういう場面ではそれをしてはいけない」などいろいろある。

先ほどのエピソードは、単純に親から子へのしつけの範疇に思えるかもしれない。(そもそもわたしはしつけをしない主義だが)

しかし、重要なのはここからだ。

次男は、兄の言葉をまったく気にしていなかったのだ。わたしは次男の気持ちも確認せず、自分の感覚で「そういう言葉はよくない」と注意していた。当の次男はというと、むしろ一緒に遊べて嬉しいと思っていたそうだ。

わたしは、兄弟の関係性の中に入り込んで、空気や世界をぶち壊すようなことをしていたのだ

このように「AはBであるべき」というような、自分の中の正論を他人に押し付けてしまう行為には注意が必要である。これは、当人は良かれと思ってやっていることだし、自分が正しいと思っている。

しかし、わたしは兄弟2人のやりとりに全く関係ないのだ。以前にも、次男に「お母さんはいつも関係ないのに、僕たちの会話を聞いてイライラしたりしょんぼりしたりしている」と指摘されたことがあった。

そう、わたしはその「関係性の輪」の中にいない。関係ないのに、横から割り込んで自分の意見を押し付けることは、迷惑でしかないのだ。

他人の関係性を想像しにくい

他人には他人の世界がある。他人同士はその人達だけの間柄や距離感を、独自にもっている。それが、よくわからないのだ。

これとよく似たような事例が、就労支援事業を行うKaienの自分のこだわり・物差しを他人に押し付けている?発達障害の人の視点で議論してもらいました ~キスド会 2017年9月 開催報告~の記事で語られている。

わたしは相談者のこのAさんの気持ちがすごくわかる。とくに

「親しい間柄にある二人の感覚が理解できない感じでしょうか。」

というDさんの質問がビビビッと刺さってきた。

わたしは、長男と次男の関係性が理解できていない。

2人の間には2人の世界があって、その空気感がある。次男が助けを求めてきたり、嫌がったりしていないのにも関わらず、自分の主観だけで「AはBでなければならない」というこだわりや、価値観の押しつけをしていたわけだ。

しかしわたしは「人の気持ち」を考えての行動だった。次男の気持ちだ。

次男はさぞかし嫌な思いをしているだろうと思った。でも、実際それは思い過ごしというか、ただわたしが不快なだけで、次男の気持ちも同じだと思い込んでいた。

「人の気持ちを考えろ」と言っているのに、自分が人の気持ちを無視しているわけだ

実はこれ、もう少し若いときは家族以外の他人に対してやっていたし、やられたこともある。他人に直接注意することはなかったけれど、勝手にこだわりを他人に投影してイライラしてストレスを溜めていた。自分のこだわりに反する人が気になり、人嫌いになって、人と関わりを持とうとしないこともあった。

これは、他人の気持ちを想像できないというか、他人の気持ちを自分の気持ちと混同して、決めつけてしまうところに原因がある。これは、自他境界の問題でもあると思う。

発達障害を持つ人は、自他境界が曖昧になりやすい

発達障害を持つ人は、自他境界が曖昧になりやすい。自他境界とは、自分と他人の心理的な境界線のことである。

ASDはとくに自他境界の問題を抱えやすい。相手の問題に踏み込みすぎたり、自分の領域に他者を受け入れすぎたりする。それが、社会的なコミュニケーションの障害となる。

自分と意見が違う人、感じ方が違う人に対して「なんで?なんで?」「おかしい!」「理解できない!」と思ってしまう。関係が近しい人ほどそうなる。境界線をまたいでしまうのだ。

「人は人、自分は自分」という考え方が苦手なので、なぜそう思うのか、なぜそういう振る舞いをするのかを徹底的に質問攻めにしたり、批判してしまうこともあるだろう。

これもやはりこだわりの強さが関係している他「強すぎる正義感」というのもある。

正義感とは、自分が正しいと思ったことを通そうとする気持ちのことをいう。モラルやマナー、倫理観や道徳観などのことも正義感に分類されることがある。

そういえば、わたしは発達検査を受けたときに、心理士さんから「社会的マナーやルールなどの項目が異様に高い、これほど高い人は見たことがない」といわれたのを思い出した。正義感が強すぎるのだ。

正義感というのは、使い方を間違えれば人を抑圧する武器と化すこともある。本当に、注意しなければならないと思った。

客観的意見や、信頼できる人の言葉を素直に聞くこと

今回このことに気づいたのは、信頼できる人から「次男のフォローを」という言葉を聞いたからだ。そして、次男のフォローをしようと思って実際に話を聞いてみたら、なんと彼は全く何とも思っていなかった。

わたしが勝手に不愉快に感じて、正義感でモノ申していただけ。

やはり考え方の偏りやこだわりの強さがある自分は、人の言葉を素直に受け取って、客観的にものごとを見るように意識すべきだ。ここではあえて「そうすべき」だと言いたい。

わたしはよく、夫に「正しいことを言えばいいというわけではない」と言われる。

確かにそうなのだ。正しさも人によって違う。

それに「人の心」「気持ち」「関係性」というのは、正しさで測れるものではないのだ。当人同士がそれでいいならそれでいい。

そこには完成された世界や空気がある。関係のない外の人間が、あれこれ言ってはいけない。

わかっているつもりだったのに、すっかり無自覚だった。

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