発達障害に関心があったり、当事者であったりすると、周囲の人からよく「発達障害って結局何なの?」と聞かれることがある。
「その悩みって発達障害だからなの?」
「あの人は自分の話ばかりする。あの人も発達障害ってことなの?」
「そういうのって誰にでもあるんじゃないの?」
わたし自身、診断を受ける前にずっとこういうことを考えていたし、確かに疑問だった。
発達特性と発達障害
発達障害を正しく理解し、ツールとして使えるようにするには「発達特性」と「発達障害」をわけて考えることが必要なのではないかと思う。
発達障害とは、生まれつきの脳機能のアンバランスによって行動や情緒に特徴があり、それが日常生活に支障をきたしている「状態」である。
一方、発達特性というのは、生まれつきの脳のタイプのことだと考えている。たとえばADHDやASD、LD、HSPなど。脳のタイプによって、行動や情緒に共通する特徴がある。同じ人間のように見えても、実は特性が異なっている。
わたしはこれを、図鑑の分類と同じようなものだと思っている。植物でいえば属だったり、魚でいえば目だったり。さらに細かく「科」で分けられていたりする。
こうやってある程度分類することは、その人が生きる環境を整えるための環境整備に欠かせない側面があると思う。たとえば、ADHDの人はいちいち紙に書いてわすれないようにする、アラームやタイマーを駆使して時間管理するとか。ASDの人は感覚過敏への対処をするとか、見通しを立てる工夫をするといったようなこと。
これは、発達障害にあたらない人であっても、自分の得意不得意に合わせて対処をしていくものだと思う。
それに加えて、発達障害は複数の特性が併発していることもあるので、一概に分類することに意味はないともされている。ここでけっこうやりがちなのが「ADHDからきているのか」「ASD由来なのか」を分けようとしてしまうこと。これは「こだわり」なので、ASD傾向の人に多いかもしれないし、わたしもそうだ。
誰でもそういうことはある?
発達障害について学んでいくうえで必ず出てくる疑問が「誰でも多少はそういう部分があるんじゃないの?」ということ。
これはその通りで、性格によって誰でもADHDやASDの特徴を少なからずもっていると思う。しかし、それが「日常生活に支障をきたす」というレベルになると、発達障害になるということだ。
ただ、この「日常生活に支障をきたす」という言葉もちょっと曖昧な気がするので、細分化してみよう。
支障をきたすとは「邪魔になる」「ものごとの妨げになる」「差しさわりがある」などいくつかの言葉で言いかえることができる。わたしはこの中で一番簡単でわかりやすい表現は「邪魔になる」という表現だと感じる。
つまり、自分の発達特性が日常生活を送る上で、大きな邪魔になって不便が生じるのであれば発達障害と思ってよいのではないか。(ただし、どのレベルで邪魔・不便だと思うかは人それぞれで、主観が大きいという矛盾もある)
ミスをしやすいにしても、そのミスがとくに生活や仕事をする上で邪魔にならない・気にならない・叱責や問題につながらないのであれば、性格の範疇になる。
でも、ミスを回収するために時間がかかったり、余計な作業が増えたり、叱責を受けすぎて疲弊するようであればそれは邪魔になる。
「次からは気をつけよう」と思っても、特性を理解していないと「気をつけ方」も「対策」もわからない。
誰でもミスをすることはある。誰でも人とのコミュニケーションは難しい。
でも、その「程度」によっては生活上の大きな負荷になって、疲労やストレス、自尊心の低下などさまざまな問題に発展し、二次障害に発展するおそれがあるという流れなのだと思う。
それでも、今のように発達障害がメジャーでなかった頃は、対処に結び付く体系化などできていなかった。今でも完全ではない。
自分の力でなんとかするしかなかったり、あきらめるしかなかったり、問題が山積みになったりしてきたのだろう。だから、わたしは発達障害という概念ができたことは、本当にありがたいと思う。
状態は常に変化する
発達障害とは、自分の脳の特性によって日常生活に支障が出ている「状態」を指している。でも、その状態というのは、日々変化するものだと思う。
たとえば、わたしのように職種を変えたことで自分の特性が気にならなくなることもある。
理解のない人と一緒にいることをやめて、理解のある人と暮らすようにする。周りの環境が変わるだけでも、自分の中の困り感は減る。(ただ、相手が困ることもあるかもしれないので、そこは注意すべきだと思いう)
もっといえば、自分の特性を細かく知って「できないことをどうやってできるようにするか?」「不快に感じるものをどうやってなくしていくか?」という工夫を重ねた結果、困りごとが減って、状態が変わる。
実に、流動的なものだと思う。
いつか昔に発達障害の診断を受けたけれど、今は全然困っていないからどうでもよくなったという人も少なくない。
わたしの場合はどうか?
細かい困りごとは減っても、つらいことはけっこうあるな、という感じ。とくにパニックはなくならないし、失敗が重なる日は心底凹む。でも、これはどんな人でもそうだろうな、と思う。つらいことのない生活などない。
診断にこだわらない
わたしは診断を受けたが、どちらかといえばグレーに近い黒である可能性もあるなと思っている。わたしの息子は、診断を受けることを進められるも、実際には診断が下りなかった、いわゆるグレーゾーンだからだ。(まだ子どもだということや、わたしの説明がしどろもどろになったせいもある)
限りなく黒に近いグレーである。わたしたちは性格こそ違うけれど、同じような状況で実によく似た反応をする。
当然わたしは「自分は発達障害だけど、息子は発達障害じゃない」なんていう風には考えない。
わたしにも息子にも、特性がある。それを踏まえて、それぞれの感覚を共有したり、対処法を考えて報告し合えることも多い。
同じ特性があるので激突しやすいのは確かなんだけど、そのぶん分かり合えることも多い。
「わたし〇〇になると不安なんだよ」といえば「あ!俺もそう!」と意気投合できたりする。息子はいわゆるグレーゾーンだけれど「グレーゾーンだから放っておいて大丈夫」「みんなと同じように頑張れる」というものではない、ということは毎日のように感じている。
現状では、グレーゾーンの場合支援を受けにくいし、求め方が難しいという課題も感じる。結局、自分たちでなんとかしていくしかない。でも、発達特性が強く出ているという事実は、知らないより知っていたほうがいい。
発達特性は自分、発達障害は状態
わたしは「発達特性が自分自身」で発達障害は「状態」と考えることにした。でもね、よくわからないよ。だって生活に支障が出ない日もあれば、出まくる日もあるじゃんって思う。(それは疲れやストレスで特性が強まるからなんだと思うけど)
診断はわたしにとって確かに重要だった。でも、診断は医師によって変わることも多いから、発達障害かどうかよりも「自分の発達特性はどんなものか?」を考える方が、直接的な生きやすさにつながると思っている。