女性のASD

エネルギーの「生成」「補給」「合成」

昔から、元気がなくなったり、悩んでいたりすると、必ず誰かが「気分転換にどこかに行こう」「会おうよ!話ならいくらでも聞くよ」と言ってくれる。

そのたびに、自分が人に恵まれていることを痛感するし、人の優しさに触れる。

わたしはとても受動的。ギブアンドテイクがよくわからなくて、人に何かを与えることが苦手だ。いつも人に助けてもらってばかり。

それなのに、わたしが何か悩めば、誰かが声をかけてくれたり、元気を誘ってくれたりするのだ。

しかし、しかしだ。

そんな贅沢な環境にありながら、わたしはその厚意をうまく受け止められないことがある。誰かと会ったり、言葉を交わしたりするエネルギーが枯渇しているからだ。

エネルギーの補給か?生成か?

元気がないというのは、エネルギーが足りない状態だ。無気力になったり、なんだかボーっとしてしまったりする。

元気のない姿は、他人から見ていると「元気がないのなら分けてあげよう」「エネルギーをチャージしたほうがいいのでは」という風に映るだろう。

しかし、わたしの場合、この段階ではまず「エネルギーの生成」をしなければいけない。元気や意欲、活力などのもとになるエネルギーを、自分で作り出す時間と作業が必要なのだ。

エネルギーの補給ではない。あくまでも生成だ。

エネルギーの補給というと、足りない分を補うためにどこかからもってくるイメージだ。誰かに注いでもらう、好きな音楽や映画から元気をもらう、誰かの笑顔や言葉からパワーをもらう。

そうやって「誰かから、何かからもらう」ことがエネルギーの補給だと思う。

しかしわたしは、まず自分の中でエネルギーを生み出してからでないと次の段階に進めない。生成するのだ。

生成するために必要なのは、完全にひとりになって、外界を遮断して、自分の興味のあることだけを考え、黙々と作業や生活をするに尽きる。

ただ、日常生活を生きていると、そんな時間がとれないことも少なくない。自由な時間を好きほど設けられることなどない。自分の世界に入り込んで没頭できる時間が、足りない。

すると、生成できるエネルギーはどんどん枯渇していって、カラカラに乾いてしまう。

対人電源をONにするためのエネルギー

わたしのような人間は、エネルギーを生成する時間や作業ができないと、対人電源をONにすることができない。

「誰かと関わること自体にエネルギーが必要な人がいる」ということだ。

声を発すること、人の目を見ること、言葉を選ぶこと、相手の気持ちや意図を慮ること、表情を作ることなど。

人と接するには、自分の中のあらゆるスイッチをONにする必要がある。これは、友人知人や職場の人といった外の人だけではない。

家族や恋人に対しても同じだ。相手が「人」であれば誰でも同じように、スイッチを入れなければならない。

自分の対人電源をONにするためには、まずその電力が必要になる。でも、エネルギー生成をする時間と作業ができていない場合、エネルギータンクはからから空っぽだ。

わたしはすべての約束や予定をキャンセルし、ひとりにならなければいけない。まずはそれをしないと、ガス欠で死んでしまうのだ。(うつになるということ)

しかし、一定期間ひとりになって、生活をしてみる。何も特別なことはしない。自分の決めた日課や計画通りに動くだけだ。自分の世界観に入り込む時間があれば尚よい。

1日1時間でも2時間でもよい。(ほんとうは1週間くらいあると理想だけれど、わたしの場合そこまで多く取れることはない)

自分の世界を満喫することで、エネルギーはどんどん生成される。

エネルギーの合成

ひとりの世界を満喫して、自分の中に十分なほどのエネルギーが生成されたら、今度は合成ができるようになる。

合成とは、ふたつ以上のものが結びついてひとつになること。まずは自家発電で生み出したエネルギーを使って、対人電源をONにする。

そして誰かから受け取るパワーやエネルギーを自分のエネルギーと合成する。そうすることで、プラスの状態になることができる、という感じだ。

つまり、自家発電で生成するエネルギーは、比較的たくさんの量が必要ということになる。

自分の生命維持にかかわるエネルギー、対人電源をONにする分のエネルギー、そして誰かのエネルギーと合成するのに使うエネルギーが必要。

かなり余裕がある状態を作っておかなければいけない。

反対に、誰かと接することや、人と言葉を交わすことでエネルギーが満たされる人もたくさんいると思う。

これは完全にタイプの違いであり、優劣でも正解不正解でもない。わたしの場合は、太陽光発電がメインという感じかな。

自分ひとりの世界で生きているということ

このことを考えていて、やっぱり自分は自分の世界中心の人間なのだと思い知る。自分の世界が守られてはじめて、他者と関わることができる人間なのだと思う。

誰かと一緒に生きるために、ひとりにならなければいけない。誰かと喜びを分かちあうためには、ひとりで自家発電しなければいけない。

ただ、わたしは常に人に囲まれているからこそひとりになりたいと思うのだろう、ということも分かっている。

孤独を愛しているわけではないし、天涯孤独を経験したこともない。これが本当に、誰も関わる人のいない生活となったら、それはそれは寂しいのだろう。

つまり、贅沢な悩みでもある。

でも、自分の体やメンタルを守るために自分の世界に入り込まなければいけないのは事実だ。

でもそれをやろうとすると、かなり自己中心的で、身勝手になることもわかっている。その調整は実に難しく、技術のいることだと思う。

それでも周りの人の協力や手助け、たくさんの気遣いや思いやりの上に自分が生活しているということだけは忘れたくないと思う。

これを忘れてしまうと、自分のタガが外れる。「自分だけの力で生きられない」のを自覚するからこそ、調整の技術を磨いたり、他者と調和するための工夫ができたりするのである。

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