今日はクリニックに行った。クリニックでは2週間に一度薬をもらいに行っている。
メンタルクリニックの診察というのは、5分にも満たない。薬を飲み始めてから調子がいいので、とくに何も言うことがない。
「変わりありません」「調子がいいです」としか言えない。
先生は「お仕事は忙しいんですか?」とか「外に出ていますか?」とかいろいろ聞いてくれるんだけど、何をどこまで話せばいいのか迷いすぎて、歯切れの悪い会話になる。
何が診察に関係があって、どこまでが必要情報なのか……と考えてしまうのだ。
先日の診察では「お仕事は、依頼がたくさん来るんですか?」と聞かれた。
え?なんでそんなこと聞くのだろう。わたしの病状と、仕事の依頼の話って関係ある?在宅ライターがめずらしいからって個人的興味入ってる?
仕事が忙しくてストレスが溜まっている可能性を聞きたいの?だったら「仕事が忙しくてストレスや疲れが溜まっているということはありませんか?」と聞くはずでは?なぜ「依頼が来るか」という言葉なの?
これくらいの思考が一気に湧く。
相手が何を聞きたいのか、何のためにその話題を振ってくるのか、いちいち考える。
会話は情報交換か?
わたしにとって、会話は情報交換であるという考えがベースにある。これが強すぎて「関係ない話は一切してはいけない」と思っているのかもしれない。もしくは必要性のない話をしたくないと思っているのか。どちらかはよくわからない。
家族との会話の中でも「言う必要性があるのか」で自分の発言を決めているところがある。でもその必要性って、自分が勝手に判断しているだけで、相手がわたしに関する情報を知りたいと思っている可能性というのをみじんも考えられていないことにもときどき気づく。
「相手のことを知っている」のは親しさの証であり、関係性を良好にするために必要なことではないか。
たとえば、わたしは家族に薬を飲んでいることを言っていなかった。病院にかかっていることも言っていなかった。
わたしは、その事実が「相手にメリットのある情報かどうか」を自分で勝手に判断して「その必要はない」と判断していた。
「実はこれこれこういう理由で病院に行って、薬を飲むことになったんだ」
わたしがそう話したときに「だからなに?」となってしまう想像しかできなかった。言われた方は困るだろうと思った。
しかし、これが、違うパターンだったら話す必要性があると判断できる。
相手から「最近調子がいいよね?なぜ?何かしているの?」と聞かれたら「実は薬を飲んでいるんだ」と話す必要性が出てくる。それなら、迷わず話せる。わたしはこういう思考回路をしている。
でも、相手からすると「なぜ言ってくれなかったのか」という悲しみを感じるのだろうか?その辺は、相手がこちらに合わせて我慢してくれているのか、なんとも思っていないのか、わからない。
結婚や同棲で会話がなくなる理由
しかし、会話というのは「言葉を交わして仲間意識を高めるためにするもの」でもある。わたしはこれが苦手。苦手というか、そういう概念があるということをすぐに忘れてしまうのだ。
他人とは「今日は暑いですね」「そうですね、9月の残暑はきついですね」という会話。子どもが「〇〇君が嫌なんだ」と言ったら「そっか~嫌だったね。そういうことってあるよね」と言って、他愛もないやりとりをすることなど。夫婦なら「いや~今日は疲れたよ、〇〇で問題が起こってさ…」と、会話が始まる。
これが、関係性を良好に保つ秘訣なんだ。わかっちゃいるけど、すぐ忘れてしまう。
解決策を求めたり議論したりするのではなく、ただ言葉を交わす。同じ時間やひとつの話題を共有することが、人とのかかわりだ。
お互いが仲良しであることを確認し合うために人は会話をする。話のトーンや表情から相手の状態を察するために、言葉を交わす。中身はそれほど重要ではないことも多い。
こういうコミュニケーションが苦手な人は「家族」や「恋人」などのより近しい関係になると、途端に会話が減るだろう。
だって、結婚したり、恋人になったり、同棲したりした時点で「仲間」であるという認識になるから。一種の契約で結ばれれば、いちいち会話で仲間意識を確認する必要なんてない。
ここまで書いていて、男性が結婚すると妻と話をしなくなる様子が浮かんできた。
あぁ、話すって情報交換じゃないんだ。
周りが自分にどれだけ合わせてくれているか
わたしはここ最近、自分が周りにどれだけ不快な思いをさせてきたか、周りがどれだけ自分に合わせてくれているかを痛感している。
自分から何もアクションを起こさない(起こせない)わたしに対して、周りが調整してくれていること。うまくやっていくために、配慮してくれていること。目をつぶってくれていること。
でも、自分ではそれになかなか気づけないのだ。自分なりに頑張って頑張って人とうまくやろうとしているんだけど、それでこのレベルなんだと思い知る。
自分なりに頑張っていることを訴えたくなるし、訴えることもある。しかしそれでは相手の気持ちはおざなりになる。
わかってくれよと嘆くのではなく、自分がこれからどうしていくべきか。無理のない範囲で、どう変われるのか、考えていきたい。人と一緒に生きていくために。