わたしは、同年代の友人がほとんどおらず(そもそも友達があまりいない)
年上の人と接するのが好きだ。
どうも、同年代の友人と話すとそりが合わない。何となく自分を抑えてしまうというか、何者かを装ってしまう。
その点、年上の人たちの中にいるのは楽しいし、楽だ。何か変なことを言っても「若いね」で済ませてくれるし、仮に感覚が合わないことがあっても「年齢が違うから当然」と思える。付き合い方はドライで「友達」「親友」などといってベタベタしないところも好きだ。
でも、それだけじゃない。わたしが年上の人を好きなのには他に2つの理由があるように思う。
経験や知識の豊富な人と友人になりたい
わたしは、できれば経験や知識が豊富で、自分の知らないことをたくさん知っている人と友人なりたい。
自分より経験や知識の豊富な人というと、どうしても年上になりやすい。もちろん、年だけ取っていて経験も知識も何にもないっていう人もいると思うのだけれど、そういう人とはまず接点がないし波長も合わないので交わることはない。
でも、わたしがなんとなく惹かれる年上の人というのは、やっぱり何かしらの突出したものをもっている。卓越した経験を持っている人、何でも自分で作ってしまう人、地獄のような体験をしてきた人。
誰でも人とは違う経験をしているし、その人それぞれに知識をもっているだろう。同年代でもそれは同じ。でも、年を重ねていればそのぶん厚みがある。
年上の尊敬できる人達の話を聞くことは、デパートのショーウィンドーを眺めるような感覚に近い。美しくて、価値があって、素晴らしいもの。見るだけならよりどりみどりで、でもそれを手に入れるには高いお金や時間が必要だから、なかなか一朝一夕に肩を並べることはできなくて。
そんな感じがする。わたしはデパートでコスメを選ぶより、高級な靴やバッグを眺めるより、年上の方たちの経験談や知識に触れている方がワクワクするのだ。
老賢者を求めている
わたしは前々から「先生が欲しい」という感覚が強い。先生とは「導いてくれる存在」のことである。
わたしの先を歩いていて、先導してくれる。深い知識は父性を表し、わたしのどんな幼稚で無礼なところも受け止めてくれる母性もある。
これはユング心理学における「老賢者」に近い感覚なのだと思う。比較的男性性の強い女性で、年上の女性。これがわたしの理想的な知人のタイプだ。
なぜ老賢者を求めるか?
それは、心の内省をする癖があるからだと思う。内省をするとは、自分の心の深いところを探るということ。子ども時代にさかのぼったりすることも多い。そういう心の旅をする人は、このような老賢者のイメージが湧くことがあるという。(お母さんはしつけをしないで/長谷川博一に書かれた一説)
わたしは心の旅をしてきた。というか、心の旅しかしてこなかった。他に何もしてこなかった。だからこそ、この老賢者のイメージは容易く湧いてくるし、実生活でもそういう存在を求めているんだ。
「友達」はいらないが、知識や経験を共有し合える人は欲しい
わたしは「友達がほしい」と思わない。でも、知識や経験を共有し合ったり、それを元に対話したり、議論したりする相手は欲しいと思う。
「そういう人のことを友達というんだ」という声が聞こえてきそうな気もする。
そうだとしたら「友達」という言葉の指す枠組みは広すぎる。
別に、行動を共にする人が欲しいんじゃない。ランチに行く相手が欲しいわけじゃない。
もっと、深く、深く、話せる人。関わることで自分が昨日よりもプラスになっていること。(知識面だけでなく感情面でもいいのだけど)
そういう存在がいたらいいなと思っているのだ。
それを世間では「友達」と呼ぶのかもしれないが。