日記

世界はアトラクション、日常はすべて体験である

わたしは文章を書くのが仕事で、趣味でもこうして文章を書いている。でも、この2ヶ月ほどのあいだほとんど文章が書けなくなった。

とはいえ、仕事では毎日何かしらの文を書く。自慢じゃないが、わたしは仕事において「書けない」という事態に陥ったことがない。

何しろわたしの仕事はWebライターだ。書いているのは、ほとんどレポートのようなもの(と自分では思っている)調べたことを決まった順番通りにつないでいけば作れる記事なのだ。

それには確かに技術は必要なのだけど、わたしは「書けなくて仕事にならない」という経験をしたことがない。

一方、こうして自由に書く文章というのは全く別ものだ。

自分の経験、感じたこと、考えたことを一つの結論としてまとめ上げる作業になる。

感じたことも、考えたことも、いくら調べても出てこない。わたしの中だけにあるものだ。

たとえば「レジ打ちができなくなることはないが、以前のように接客できなくなった」みたいな感じだろうか。

書くことが全く浮かんでこなくなったし、書きたい衝動も湧いてこない。

薬を飲んでいることも関係しているのだと思うけど、それだけではなかった。

いっぺんにいろんなことが起こると「自分」がなくなる

ここ数ヶ月の間を振り返ってみると、いっぺんにいろんなことが起こった。今まで溜まってきたものの清算をするかのように、不測の事態が一度に押し寄せてきた。

もしかしたら、これを読んでいる人も同じような経験をしているかもしれない。11月8日の皆既月食あたりは、いろんな人に重めのネガティブな出来事が起こったようだ。

当たり前のことかもしれないが、あまりにいっぺんにいろんなことが起こると「自分」というものがなくなる。考えることがありすぎて、自分に戻る時間がなくなるのだ。

自分を見失うと何が起こるかというと……

人が怖くなる。すべての人の目が怖くなる。わたしの場合、軽い被害妄想が出てしまうのでこまったものだ。

SNSやブログも、周囲の人にすべて監視されているような気がして更新できなくなった。みんながわたしの欠点や心の闇を見透かして、さげすんだような目で見ているような気がしてならない。

みんながわたしの噂をして、ヒソヒソと「あの人はヤバい」「関わらない方がいい」などと噂しているような妄想が広がってしまった。

対処しきれないような状況、思いもよらない不測の事態、正解の分からない問題。それを一気にいくつも抱えたせいだ。妄想はけっして事実ではない。

でも、渦中にいるとそれが真実のように思ってしまうのだ。そのせいで、わたしはアナログの日記を含む、一切の文章を書けなくなった。

スランプを「体験させられた」

そんな状況や精神状態を今はちょっと抜け出しているのだが、一連の流れの終わりを感じた今、感じるのは

「スランプ」を体験させられたんだ、ということ。

これまでだって、傷つくできごとやストレスフルな状況というのは幾度となくあったはずである。それでも、文章が書けなくなることはなかった。ストレスフルなときこそ文章を書いて、発散してきたのだった。

でも、今回は「書けない」状況になってしまった。これはまさに、外的な要因によって今まで経験したことのないスランプを体験させられたのだと思う。

わたしは、人間はすべてのできごとを「体験する」ために生まれてきているという考え方を採用している。どんなにしんどいことも、理不尽なことも、嬉しいことも、楽しいことも、すべて体験しているだけ。

ホラー映画を見たり、ジェットコースターに乗ったりするのと同じように、体験しているに過ぎない。そう思うことにしている。

だから今回、わたしはいっぺんに起こったさまざまな出来事を体験するだけでなく、それによって今まで順風満帆だった「書くこと」が揺るぐという体験までしたのだと思う。

つまり初体験のオンパレードであったということ。

そう考えたら、本当にわたしが今生きている世界って、つらい世界だろうか?と思えてくる。ストレスフルな状況でも、結局それは「そういう体験」「そういうアトラクション」ということになるのだ。

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