昨日の夜も更けた頃、夫が仕事の愚痴を漏らした。夫はずっと、企業の新しい体制づくりのために動いている。同僚に「こんなことをやってみたいんだけどどうだろう」と相談したところ、同僚は「やるのはいいけど」と前置きして、現状の不満や提案への不安、失敗の可能性などを論ってイライラした様子だったという。
わたしは、その同僚の姿に自分を重ねた。こわいんだろうし、やりたくないんだろうな。めんどくさいんだろうな。失敗したときに責任を負いたくないのだろうなと思った。
その同僚の気持ちは、昨日の自分と同じなのではないかと思った。
でも、決定的に違ったのは「失敗がこわいからやりたくない」という自分の気持ちを、現状や周りへの不満にすり替えていることだ。〇〇だからできない、〇〇になったらどうするんだ、という主張をしていること。
わたしもその日、同じようなことがあった。運用体制を変えるために、わたしの業務がこれまでと変わる可能性が出てきた。思いがけず、今までよりも上流工程に行くことになるかもしれないことになった。めちゃくちゃ不安で、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
でも、何かをよりよくしようとしている人たちの前で「苦手だからできません」「怖いからやりたくない」「失敗の責任を負いたくない」は先に出てこない。
そんな気持ちがあっても「こんな自分にもできることがあれば何かしらの形で協力したい」という気持ちが先にくるのだ。何かをよりよくすることは、結果的に自分にも影響がある。自分のためにも「改善」には協力したい。
そこが、その同僚の人と自分との大きな違いだった。垣根の部分は不安や失敗への恐怖なので、似ている。
夫は「失敗したっていいんだよ、最初からうまくいくわけないんだから。まずは試験的にやってみて、その結果を見て改善して、またやって、改善しての繰り返しなんだから、失敗したっていい。大したことじゃないんだ」と言っていた。
それはわたしに向けて言った言葉ではなかったが、わたしはその言葉を受け取った。
本当にその通りだ。とても、とても、シンプルなことだ。
でも、不安や恐怖のエネルギーは強いから、一瞬揺れてしまうんだよね。不安や恐怖によわいならなおさら。不器用ならなおさらだ。
でも、感情は、静かに見つめてしばらく放っておけば次第に鎮まるものだ。わかっているのにときどき忘れてしまうね。
心配ごとの9割は、実際には起こらない。ただ感情が揺れているのを見つめて、揺れが収まったら静かに外に出てみよう。