文章が全然書けなくなったなぁと思う。
このブログを書き始めたころは、いや、そのずっと何年も前から、書きたいことなんて山ほどあって、あふれ出てくるようにしてものを書いていた。
それが、最近めっきり「書きたい」という衝動に駆られることがなくなってしまった。
執筆に携わる仕事をしているわけだから、書こうと思えば書けるのだけど、なんだかこう「伝えたい!」と思うことがなくなってしまったのだ。
ずっと「怒り」で文を書いていた
わたしはずっと、誰かに、何かに対して怒っていた。
自分の周りには悪いことばかり、嫌な奴ばかり、バカばっかりだと思って、世間を見下していた時期もあった。
そうかと思えば、自分には自信がなく、人の顔色や視線が気になって、自分を表現できなかった。
しかし、いつからだろう。
なんだかパタッと、何かを言いたい!伝えたい!届けたい!みたいな、衝動的な気持ちが減ってきた。
なにか言いたいことが思い浮かんでも「それって結局わたしのエゴでしょ」「そういうことを言ってる自分、わかってる自分に酔ってるだけでしょ」という、もう一人の自分の声がしてくるような感じ。
これは、エックハルト・トールのニューアースを読んだときの感覚と同じだなぁと思う。
結局はすべてエゴ。何もかもがエゴなんだと思うと、何も言いたくないし、何も伝える気にならない、というような。
でも、だからといって無気力になっているとか、もの悲しい気持ちになっているわけでもなくて。
わたしは今、何にも怒っていない。多分、不安がないんだと思う。
そもそも怒りというのは第二の感情であり、怒りの元をたどれば不安・恐怖・焦りなどの感情が浮き彫りになる。
わたしはこの不安と恐怖を徹底的に排除して暮らしている。
たとえば、無音になるとぐるぐると不安なことを考えてしまうので、一人のときはひたすら音楽やラジオなどを聴いている。もうそれは「楽しむため」ではなくて、不安から逃れるために依存しているのと同じ。
でも、誰にも迷惑かけずに自分で自分の不安を消せるから、助かっている。
そして、頭の中に浮かんでいるやるべきこと、予定、時間、夕食の献立、買い出しリスト、重要なフレーズ、アイデア、疑問点などなど、すべての情報をメモに書く。
B5のプリントの裏紙3枚くらいに毎日頭の中を書き出して、並べて眺める。
まぁ、細かいテクニックはいろいろあるんだけど、そういうことをひたすらやっているんだ。
そうすると、やっぱり不安も恐怖も焦りも、感じにくくなる。
すると、怒りを感じることもなくなる。
怒りがなければ、何かを言いたいとか、伝えたいなんていう衝動も沸かないんだ。
これは物書きとしてはちょっと寂しいというか、あの頃みたいに夜通し寝ないで文章を書きなぐれたらどんなに気持ちいいだろうと思うことはある。でもなんか、できないんだ。
頭の中が変わった、思考のクセが変化した
だからといって、わたしが何かを書くことには意味がないと思っているわけではない。
伝えたってしょうがない、書いたって意味がないと思っているわけではない。
むしろ、以前よりも「書いて伝える」ということの重みは増した。
正直言って、これまでは自分の書いたものを誰かに認めてほしくて書いていたし、文章が素晴らしいですね、あなたの考え方は素敵ですねと言われたいがために書いていた部分もあった。
それは、作品としてものを書く立場として当然の欲求だと思う。いわゆる承認欲求だ。
それがあったから仕事をしてこれたし、文章を書き続けられた。
でも今は、「誰かに認めてほしい」という動機で文章を書いていないんだ。
賞賛されるために文章を書かなくなった。褒められるために考えを外に出そうとは思わなくなった。
そして、もう一つ感じるのは「何かを批判する文章や、自分のつらさを文章にするのは簡単だった」ということだ。
一方「何かを褒める、感動や喜びを伝える文章を書くのは難しい」ということ。
上坂徹氏の書いて生きていくプロ文章論の中にも、そのような一説があった。何かを批判する文章よりも、何かを褒める文章のほうがよっぽど難易度が高いと。
つまりそれは、わたしの頭の中が常に批判的でネガティブな思考だったということになる。
常に何かに怒り、批判し、自分の置かれた立場の不当さばかりを考えて生きるほうが、楽で、容易いのだということ。
一方、感動や喜び、感謝を意識しながら生きることは、難しい。
コツをつかんでしまえば容易になる。しかし、傷つき挫折しながら生きる人間にとって、常にポジティブな側面に注目しながら生きていくことには技術がいるんだと思う。
つまり、わたしが怒りを原動力にして文章を書かなくなったのは、頭の中が変わったということ。思考のクセが変化し、ものの見方が変わった。
材料が変わったから、今までの方法では文章が作れなくなった。そういうことだと思う。
生き方の分岐点
今までやっていたことができなくなるとき。
今まで楽しかったことが、楽しく感じなくなるとき。
当たり前のように刷り込まれてきた考えや方法が、使えなくなるとき。
たぶんわたしは今、生き方を大きく変える分岐点に立っているのだと思う。
ちょっとまだ歯車がかみ合っていないというか、パズルのピースが足りない感じはあるけれど、なんとなく仮説ができてきたように思う。
これから自分が何をすればいいのか、どうしていきたいのか、もう少し考えてみよう。