日記

人間は、自らの強みである「思考」によって絶滅に向かう

さっきまで、夫と話していた。

最近の若い男性はどうして毛をなくすのか。真っ白な肌で、化粧水や美容液にお金をかけて、ネイルをする人までいるという。

それが悪いといいたいのではなくて、なぜそれが今のスタンダードになっているのか?という話。

どんな時代でも「男がそんなことをするなんて」と揶揄する風潮はあっただろう。男が長髪でパーマをあてるとか、男が仕事を休んで家事育児をするなんて、とか。

男たるもの、女たるもの。

そうだ、ジェンダーの話である。

なぜこれほどまでに、ジェンダー平等が叫ばれているのか。ようやく自分の中でおもしろい仮設というか、結論が出た気がする。

男女平等ブームは「有能な遺伝子だけを残すため」では?

これは確実にわたしの個人てきな考えなのだけれど、今のこの男女平等ブームともいえる流れは、完全に「有能な遺伝子を残すため」もしくは「子孫繁栄を望むものだけを抽出するため」ではないかと思う。

これまで、日本では「社会的に見て、●歳までに結婚していないと社会不適合者として見られる」「結婚して子どもを設けないと、社会的に成功したとはいえない」というような暗黙のルールというか、当たり前の価値観が存在していたと思う。

しかし、そろそろ結婚しないとまずい、親や親せきがうるさいから、幸せに見えないから、などの理由で結婚する人が圧倒的に多かった時代の結果が「現代」なのではないだろうか。

常に、ブームは社会によってつくられている。政治によって作られている。LGBT法案が話題だけれど、なぜこれほどまでに国がLGBT法案を推進するのかって、それは「自分という人間を受け入れることのできる人」だけを残すためなんじゃないか。

Xジェンダーと体の性の受け入れ

たとえとして、自分の話をする。

わたしは、自分が女性であるということに、常々違和感を持ってきた人間だ。女性同士の輪にいると居心地が悪い。女性らしい服装や持ち物を好まない。アクセサリーをしない。美容やダイエットに関心がない。

恋愛映画や恋愛の歌は、昔から好まない。

小学生くらいからずっと、わたしはいつも男性にあこがれていた。

幼少期、仲良しの友達はみんな男の子だった。

8歳になるまで、学校では自分のことを「ぼく」と呼んだ。

次第に女の子の友達もできたが、男の子の中に混ざれなくなっていく自分の立場には非常にさみしさを感じた。

一方で、かわいいキャラクターやピンクの持ち物も好きだった。セーラームーンごっこをして遊ぶのが好きだった時期もある。

でも、それと同じくらいに、スポーティーな服装や男子の色も好きだった。

PSやゲームボーイをすることも好きだったなぁ。

ただ女子同士の「輪」に自然に入れる子ではなかったし、男の子の友達はどの時代もずっと多かったと思う。

男の中に「女」として鎮座するのではなく、男になり切れない女としていつも存在したという感じ。

この違い、わかるかなぁ。

ときどきいるんだけど、男の中に混ざって女として鎮座するというのは「男から認められた女である」ということを、女に見せつけるために男の輪に入っている人のことをいう

男の視界に入る女であることを、同じ仲間である「女」にアピールする人である。これをわたしは、男の中に混じって「女」として鎮座すると表現したい。

でも、わたしはそうじゃなかった。女の目線なんか気にしたことがなかった。

男と遊ぶ日もあれば、女と遊ぶ日もあるだろう。ケーキを食べたい日もあれば、ポテトチップスを食べたい日もあるくらいの話である。

でもわたしは、一度だって「性転換をしたい」と思ったことはない。女であることに違和感を感じつつも、女であることに意義を唱えたいと思ったことはないのだ。

だって、そう生まれてしまったんだもの。しかたないだろう。

わたしは、女でもあるし、男でもある。女でもないし、男でもない。いわゆるXジェンダーなんだ。

しかし、世の中には「自分の心は絶対に男なのに、からだだけが女である」という人や、その逆の人がいる。つまり、この性別に生まれたことを、しかたないと受け入れられない人がいる。

それを批判するつもりはないが、そういう人が「子孫繁栄」を放棄しているのは絶対的な事実だと思う。

結婚しなくても、子どもを産まなくてもいい時代

結婚して子どもを設けることがすべてじゃない。それが人の幸せではない。いろんな選択肢がある。

これが、今の多様性に富んだ時代の生き方である以上、子孫繁栄のスピードは確実に落ちる。

とくに日本の人口減少は著しく、

総人口は64万4千人も減少し、1950年以降過去最大の減少となっている。日本人の人口減少幅は10年連続で拡大。今後も回復の見通しはないといってもよいのではないか。

原因は晩婚化や若者の貧困、政府の子育て支援が行き届いていないなどいろいろとあるけれど、じゃあその中で「結婚して子どもを産もう」と思う人って、どんな人なのか?と考えてみる。

なんとなく自分の子どもを産みたいとか、親という立場を経験したいとか、単純に一時的な欲求のなかで子どもができてしまったというケースも当然あるだろうけど

でも、やっぱり「子どもが欲しい」という、確固たる思いがある人が残っていくんじゃないか。

社会全体が「子どもを産まない人生もひとつの選択肢」「結婚しない人生もそれはそれで一つの幸せ」という風に、子孫繁栄を望まない生き方も尊重するとなった今。

この人の子どもを産みたいと思う女性。

自分の力で一家を養っていきたいと思う男性。

自分の家族が欲しい、と説に願う人たち。

そういう人だけが残っていって、結婚して子どもを設けて、家系として続いていくいく世の中になる。

それってある種、DNAの選別なんじゃないかな。

結婚しない、子どもを産まないというのも、アリだとは思う。

でも、そういう考え方に至る人は「この先残らない」ということでもある。

「今だけ」の価値観。

女性は相手に恵まれなくても、子どもが欲しいと思えば優秀な遺伝子を買うこともできる。

ただ、ひとりで子ども産み育てるのは本当に難しいから、そういう遺伝子は「家系」として長く存続するのは難しいような気もする。その代だけ引き継がれたとしても、代々受け継がれる命とはいえないわけだ。

そう考えると、今の国の政策や方向性は、確かに一般庶民からすると間違っているし、理不尽と思うかもしれないが、最終的に「強い遺伝子だけを残す」という目的だったとしたら辻褄が合うような気もする。

自分の性別の役割を全うすること

一昔前までは、若い女は優秀な家の男性を無理やりでも結婚させられた。

結婚して子どもを産むことが女性の幸せだと言われていた。

それは「生物」としては当たり前のことだったのだと思う。

でも、今は「多様な価値観」とやらのせいで、その生物的な役割は二の次になってしまったんだよね。

ジェンダー法案が推進されて、本当に女になりたいわけでもない男が女になりすましたり、その逆もまた簡単にできるようになっていく。

本当は男と同じような能力もない女が、男と肩を並べたような気になって。

本当は女と同じような能力もない男が、女と同じ役割を請け負った気になって。

人間の「生物」としての機能が崩壊したってことなんだろうなぁと思った。

もう、人間はいなくなってもいいんだろうな。

繁栄なんかしなくてもいい。こんなに、思考ばっかりで頭でっかちで思い上がりも甚だしいわたしたちのような存在は、滅びるべきなんだろう。

滅びるべき方向に自分から向かっているんじゃないかなぁ。

思考のない動物は、自分が男だとか女だとか考えながら生きていないんだよね。

もう、自分が生まれ持った性を全うして死んでいく。交尾したらすぐ死ぬとか、卵を産んだらそこで息絶える種だってとても多いの。

生物ってそいういうもので「自分の性別を全うする」ことに、命を懸けているんだよ。

自由って、本当に自由なのかな。

選べるって、本当に「選んでいる」ことになるのかな。

自分が生まれ持ったものを、嫌でもなんでも受け入れないと、繁栄も生き残りもない。

いやだったら放棄して、楽なほうに行けばいいのかな。

「今」だけ「自分」だけだったらそれでもいいんだろうけど

この世の中のダイバーシティって、結局、人間の手に負えないような、贖えないようなもっと大きな存在からの選別でしかないのではって、思った。

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