HSPという概念が数年前からブームとなっている。「繊細さん」などという言葉で表現されるようになったり、テレビや雑誌、書籍、Webメディアなどでもよく取り上げられるようになった。
とくにネット上では、HSPに関する記事や動画が増え、HSP専門のカウンセリングサービスなども登場しはじめた。
わたしも、数年前までは自分をHSPだと思っていた。以前このブログでも、発達障害とHSPの違いについて記事を書いたことがって、そのときは「どっちが自分にとってしっくりくるか」という結論を出したのだけれど、そこからまた変化したので書き留めておく。
HSPとは
HSPとは、Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)の略で、もともと抱えている繊細な気質によってさまざまな生きづらさを抱えるという考え方。
ただ、HSPは精神医学用語ではなく、あくまでも心理的な「概念」に過ぎないというのが大きなネックになっている。心理学とは、心を深く知ったり理解したりすることで、人の人生や気持ちを楽にし、よりよい社会をつくることを目的とする。
一方、精神医学は各種の精神障害・精神疾患に関する診断、予防、治療、研究を行う分野。
HSPを知ることによって、自己受容が進み、気持ちが楽になったり、生きやすくなったのであれば、それは心理学概念としての役割を果たしていると思う。
しかし、HSPというカテゴライズに腑に落ちない感じが残ったり、具体的対処法がわからないなど、逆に露頭に迷う人がいるのもまた事実だ。
HSPのチェックリストは、実にあいまいである。19のチェック項目が設けられているが、明確な診断基準はない。そもそも診断とは医学用語なので、ここでも矛盾が生じる。
19個のチェック項目があっても、何個以上という基準もないし、当てはまる項目が少なくても、それによって強く生きづらさを感じるならそれはHSPというとても曖昧な判断を促していた。
わたしの中のHSP
わたしがHSPという概念を発見したのは、今から9年前だ。当時、ライターを務めていたWebメディアの企画アイデアに苦戦し、ネタ探しをしているときに発見したものだった。確かに自分によく当てはまった。
ニッチなテーマなので、記事化は期待できないと思っていたが、それは通ってしまった。そして、結果的にその記事にはたくさんのコメントがついた。
救われた、もう少しで生きるのをやめるところだった、この記事に出会えてよかった。
そういうコメントがたくさんついた。わたしはそれをきっかけに「もっと広めたほうがいいのでは」という気持ちになった。正義感や使命感を刺激されたのだ。
そこからHSPについて調べていくと、いろいろなことがわかった。もともとの気質と環境要因が組み合わさってHSPの特徴が出ているということ。また、この気質と付き合って生きていかなければならないこと、そしてそんな自分を否定してはいけない、繊細さや敏感さは、裏を返せばよい側面でもあるということ。
自己受容に必要なステップを手助けをしたんだと思う。
でも、わたしには疑問がずっと残っていた。
それは発達障害(神経発達症)との関連性と、こだわりの部分だ。
※発達障害は現在、障害という名前を取って神経発達症という名称に変更している。
わたしは以前、出版社から依頼されてHSPに関する電子書籍を出したことがある。
そのときわたしは、妥協した。
本当は、発達障害(神経発達症)との関連性についても触れたかった。そこをきちんと、調べて書きたかった。
でも、当時のわたしの知識と経験では、それを一定の期間内で納得してまとめ上げることができなかった。当たり前だ、専門医でもないただの当事者なのだから。
加えて、担当編集者の提案で、HSPの特徴をゲームキャラに例えてキャッチーに表現するという方法を受け入れてしまった。
そして、繊細さと敏感さは強みであり、武器だと表現してしまった。
HSPの敏感さを生かして、仕事や趣味に生かしていこう、というようなことを書いた。
でも、わたしは実際、それができていなかった。
たとえば、においに敏感だからといって、コーヒーの香りをかぎ分けられるというようなことはなかった。音に敏感だといっても、音楽や楽器の才能は皆無。スピーカーの性能や音の良し悪しを判断することもできない。ただただ、雑音や人の話し声に疲弊したり、テレビやアニメの効果音でイラつくだけだった。
つまりこれは、発達障害(神経発達症)からくる感覚過敏なのに、敏感さや繊細さによって、いろいろなことに気づける(はず)という期待があった。自分に期待していた。
矛盾が残ることをわかっていながら、進めた。「本を書いた」という実績が欲しかったんだろう。Webサイトでも同様、誰かからの反響が欲しかったんだろう。人のためとか言いながら、結局自分のために記事を書いて、反応をもらって承認欲を満たした。ずっとそうだったろう。
わたしはどこかでそれをわかっていたので、あの本をもう一度読むことができない。見ることもできない。視界に入れたくない。
出版したときも、ペーパーブックが届いてもほとんど視線を向けることなく、本棚の一番上、目に入らないところにしまった。最悪である。
後になって、自分は精神医学分野では発達障害の特性に当てはまっていること、感覚過敏は「繊細さ」ではなく「過敏性」であるという結論に行きついた。
病院に行って、診断を受けて、確かめもした。
味や音、香りの繊細な違いを見分ける特技などなく、興味すらさほど持てない。
そして、精神医学の分野ではHSPの特徴は、発達障害(神経発達症)の症状の一部であるか、グレーゾーン、また社交不安症や回避性パーソナリティ障害などに該当する可能性があるという。
つまり、適切な治療や、改善に向けてのステップに進むべきひとたちが「生まれ持った気質だからしょうがないよ、うまく付き合おうよ、繊細さはある意味長所だよ」という、きれいごとで片づけられてしまう可能性があるということなんだ。
治療を受けるべき人が、見過ごされた。解決策を欲している人に対して「根本的な解決方法はない」ということを突き付けたかもしれない。本当は別のところにある原因を、気質というあいまいなもので片づけてしまった。
それがよい方に働いたこともあると思うが、悪い方に働いたこともあったんだろう。
さらには、HSPの概念が広まったことによって、HSPビジネスが生まれた。HSP向けのコンテンツ・カウンセリングサービス・商業出版・間違った治療法の提案なども行われている。わたしもそれに乗りかけたのだ。
わたしは、研究者でも医者でもないのだから、そこまで考える必要はないという考えもある。しかし、納得するまで、何も書かなければよかったという気持ちは残る。自分の衝動と欲求で、不明瞭な部分に目をつぶった自分が、とても気持ち悪くて居心地が悪い。少し、嫌な思い出として残ってしまった。
そして、間違った情報を広めたのではないかという不信感と罪悪感、恥ずかしさがある。反省の念がある。
自分に対しての反省
自分のなかに、一定のルールや世界観がある。HSPについて書いたことを後悔はしていないんだけど、自分の中の一貫性の部分に黒い点が残っていて気持ちが悪い。「キモイ」という感情ではなく「不快」という感覚である。
今この概念がブームと化し、HSP向けの広告や漫画、動画にときどき出くわすのだけれど、すごく複雑な気持ちになってすぐに閉じる。見ないようにしている。
ただ、わたしは本当に自分を誤解したり、過信したりしていたんだなということがわかった。「こうでなければ」「こうであるべき」を当てはめて、自分を曲げていたなと思う。
なんとなく違和感が残ることには、必ず意味があって、それを見ないふりすることで後々どんな感情が残るのかということも、体感的に知ることができた。
今も仕事の現場では、HSPを取り上げようという動きもあるが、わたしは採用しないことにしている。「数字がとれるから」といって広めてよい概念ではないことがわかったからだ。
※あくまでもこれは、自分の世界の中での話なので、もしわたしの書いたものを読んでよかったと言ってくれた人の声はきちんと受け止めています。本当にありがとうございます。