発達障害の過剰適応とは、自分のやりたいことや意思などを過剰にがまんして周囲に合わせることをいう。協調性を持つことや、理性的になることは、人間として生きていくために必要なことだ。でも、それが過剰になってしまうというのはどういうことなのだろうか。
この記事ではASDや発達障害の過剰適応について、さまざまな情報とわたし自身の体験を照らし合わせながら書いていくことにする。
発達障害の過剰適応とは?
他の人がやっていることをやりたいと思わない。
もしくはみんながやっていないことをやりたいと思うなど。
自分が直感的に思うことや、やりたい意思などが社会的に受け入れられないと感じるときに過剰にがまんすること。それが過剰適応だ。
発達障害傾向のある人にとっては、正直「周囲に合わせて自分を抑えるなんて、あたりまえではないか」と感じるかもしれない。少なくともわたしはそう感じてきた。「自分のままでいたら、誰ともうまくやれない」とも思うし、そもそもどこからが自分の意思かがわからないこともある。
コミュニケーションの問題を抱えやすいASDはとくに、社会的カムフラージュをすることがある。そのカムフラージュ行動は無意識下で行われていたり、根付いていたりすることも多い。発達障害の専門家である本田秀夫医師は、発達障害のなかでもASDはとくに過剰適応の要素があると語っている。(出典:本田秀夫先生の研修まとめ①「育ち方の多様性をリスペクトする社会のあり方~自閉スペクトラム症(ASD)を中心に~)
なぜ過剰適応するのか?
一般的な人であっても、周囲と足並みを揃えるためにはがまんすることも必要だし、実際にそうしているだろう。それなのに、どうしてASDは過剰適応で心身を壊してしまうのか。
意識的にでも無意識的にでも、カムフラージュできてしまうなら、それは障害と言えるのだろうか。それは一種の能力なのではないか?そこが非常に引っかかっていた。
そんなわたし自身も過剰適応だと認識している。いつまでも場所が特定されないゴールを目指して生きているような感じだ。どこまで頑張れば楽になるんだろうか。ここまでやれば変わるだろう!あれ、まだしんどい。まだ、楽にならないのはなんでだろうか…と考えることの繰り返しであったし、今もまだ感じることがある。(けっして病んでいるわけではなく、これは自分にとってあたりまえの感覚)
この疑問のヒントになったのは「障害」という言葉だ。わたしにとって、障害という言葉から連想されるのは、視覚や聴覚の障害や身体障害だった。彼らに「頑張って見てごらん」「みんなと同じように聞いてごらん」「歩いてごらん」と言うことはまずないだろう。
しかし、発達障害の場合は、わからないのに「わかるでしょう」と言われている。できないのに「できるからやってみなさい」「できないのはやり方が悪いから」と言われて育つ。自然な発言を否定され、自分自身も困っていることに対して叱責を受ける。この繰り返しで育ってきた。
これが目に見える障害と、目に見えない障害の違いなのだろうか、とも考えた。障害という言葉が引っかかりすぎている部分もある。障害という言葉を受け入れたくない気持ちもあるかもしれない。
とくに社会的カムフラージュの面でいえば、人を真似たり、合わせたりして、自分を捨ててしまえば、適応したかのうように見えることもある。
ただ、ある程度の適応ができるのは「現場」だけの話であって、家に帰ったらグッタリと疲れているし、適応を続けていると些細なことでパニックを起こしたり、暴れたり、寝込んだり、うつになったりする。もしくは、頑張って適応しようとするものの、第三者から見ると全く適応などできていない……ということもめずらしくないと思う。
しかし、多くの場合、外側から正確に確認できるのは異常発生時だけである。過剰適応しすぎて爆発したときにはじめて、心を「見て」もらえるというか。苦しかったのはずっと前からだが、その部分には目を向けてもらえない。爆発してメルトダウンしたときだけ、問題視される。この一連の流れはアイデンティティにも深く関わる問題だ。
過剰適応しやすいタイプ
過剰適応を起こしやすいのは、知的障害を伴わないうえ、障害が軽度で能力の高い発達障害に多いという。さらに女性ASDは、男性のASDに比べれば周囲に合わせることができ、言葉の遅れがないことや興味関心の分野がASDのステレオタイプに当てはまりにくいため、特性がわかりにくい。
わたし自身は、能力が高いということはない。全検査IQは90で、平均値にギリギリ食い込んでいるような感じである。それでも、周囲に発達障害を疑われることはなかったし、ましてやスぺルガーだと言われたことなどない。(一般的に正しい認識が広まっていないせいも大きいし、思っていても言わないだけかもしれない)
ただ、家族や恋人など親密な関係の人からすると、何らかの心理的問題を抱えている可能性や、一般的とは違う感覚の持ち主であることはわかる、という感じだ。
過剰適応の結果
ASDや発達障害の誰しもが心理的問題を抱えているわけではないと思う。無理をしてしまうこと、求められることや理想と自分の実態がマッチしないことによって、心身に問題を抱えるのだと思う。
わたしの場合、若いころ最初についた診断名は適応障害だった。適応障害が何を意味するのかわからないまま通院や投薬をしていたのだ。投薬も通院も、カウンセリングも苦痛でしかたがなかったので、2年間ほどの期間でやめてしまった。
女性は男性よりもASDと診断される可能性が有意に低い。現在の診断法では、ASDではないように「見える」ものの、実際にはASDであるか、自分はASDであると感じている女性がいる。
女児と男児は同じような年齢で診断評価を受けるが、男女ともに臨床的にASDに関連するマーカーや徴候を表しているにもかかわらず、男児の方がASDの診断を受ける可能性が高く、女児には異なる診断がつく場合がある。
自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界(p38)
このように実際に、女性の場合ASDからくる症状を別の疾患として診断されることがある。
精神疾患と診断された場合、いずれ治る(寛解だとしても)という認識になるだろう。しかし、ASDは治るものではない。柔軟になることや、自分自身の扱い方がわかるようになることはある。
しかし、一般的になるわけではない。根本的にASDが原因で適応障害や不安障害などの他の診断を受けたとすれば、見当違いな対処法を続けることになる。カウンセリングや、投薬治療でさらに悪化する可能性も否定できないと、わたしは思うのだ。
実際、10代の頃のわたしはカウンセリングがとても苦痛だった。話そうとしても、何を話すべきかわからない。質問に対する反応が遅く、言葉が出ないためにカウンセラーを待たせている時間に強い焦りを感じた。
文字にすれば話しやすいからと筆談を試みたこともあったが、なんだか「大げさ」という感じがした。何をどう話せばいいのか、何のためにやるのかもさっぱりわからなかった。投薬に関しては、グッタリするか、効いているのかいないのかわからないかのどちらかであった。
過剰適応に気づくまでに時間がかかる
わたしが発達障害の過剰適応という状態があることを知ったのは「発達障害の過剰適応とは〜なりたいものになれない時」という記事を読んだことがきっかけだった。著者の方は自閉スペクトラム症のグレーゾーンの当事者だという。
記事内の「理由はよくわからないけれど、自分の言動はたいてい間違っている」という一文に衝撃が走ったものだ。記事全体を通して、深い意識に眠っていた感覚がそのまま書かれており、大変感銘を受けた記事なので、ぜひ目を通してみて欲しい。
過剰適応に気づくまでには、時間がかかると思う。わたしの場合、時間の経過とライフスタイルの変化、膨大な心理学や精神医学の情報に触れて、ようやく自分がASDであることが腑に落ち始めている。
当記事で引用している書籍の中には、中年期になってようやくASDの診断が下りたという人の声も多く掲載されている。
女性ASDにとって「いつ診断を受けるか(ASDを認識するか)」という点は重要だ。自分が人と異なる理由を解明できれば、その先は自分の才能やポジティブな面にフォーカスし、ネガティブな要素をできる限り少なくしていける。(自責することが減るということ)
自分の過剰適応に気づくことは、今後の人生を大きく左右するはずだと思う。