大人の発達障害

自責は本当によくないのか?自責の“質”と自他境界

自責はよくない、自責は心の病になる、という言葉をよく見聞きする。この一言は確かに間違いではないと思うが「他責思考」が自分を苦しめることもまた事実だと思うので、矛盾が生じてしまうように思う。

結論から言うと「自責」の意味の捉え方が、人それぞれ異なっているから「自責はよくない」という短絡的な格言のようになってしまっているのかもしれないと思っている。

自責の意味とは?

まずはいつもの通り、自責の意味を辞書で引いていこう!

【自責とは】

自分で自分の過ちをとがめること。また、自分に責任があると考えること。

goo辞書

自分の過ち、至らなさ、未熟さ、無知さを認めることをわたしは大事にしている。「それは相手がバカなんだよ」と他人が言ってくれても、いやそれだけではないだろうと密かに粘って自責を続けることもあるくらいである。

相手がおかしなことを言っていたり、相手が矛盾している場合でも、まずは「自分がおかしいのかな」と考えがちでもある。

しかし、自責という意味の中に含まれる「責任」とか「とがめる」という言葉もまだ深堀できそうだ。

まず「とがめる」という言葉。とがめるという言葉には、

  • 悪いことをしたと心を痛める
  • 傷をいじくって悪くする
  • 過ちや欠点を挙げて責める、非難する
  • 怪しんで問いただす

などの意味があるようだ。

わたしが普段、あえてしている自責とは、どれもイメージがぴったり合わない。

そこで、もうひとつポイントになるのが「責任」という言葉ではないかと思う。

何か問題が起こったとき、嫌な気分になったとき、その理由を深く考えるのは決して自分を非難したり傷をいじくって悪化させるためではなく、自分と相手の責任を分けるためなのだと思う。

責任は

  • 当然負うべき任務や義務
  • 自分のした失敗の結果について責め負うこと
  • 法律上の制裁

などの意味を持つ。ここで一番しっくりくるのは、任務という単語や、自分の失敗に対して責め負うこと、の意味だ。

責任とは、境界線のようなものでもある。ここからここまでは、自分の問題だが、ここからそっちは相手の問題として分けること。自分の問題とは「自分でコントロールできること」であり、相手の問題は「それは相手が決めること」である。

これをきちんと分けられていないときに、もめごとやすれ違いが起こると思っている。

切っても切り離せない自他境界の問題

この責任の所在、自分の問題と相手の問題を分けられないのは、自他境界が関係していると思う。じっくり考えれば分けられるが、とっさに判断して対応できないこともある。

感情的に理不尽な責められ方をしたときに「自分が悪かったんだ、やっぱり自分ってダメなんだ……」と自分をいじめる(A)

逆に、自分に過失があるのに相手に責任を負わせようとする場合もある。「私がこんなに怒るのはお前が怒らせるようなことをするから!」というのも、よくある光景だ。(B)

Aは、自分の領域が狭く相手の領域を広くとりすぎている場合。

Bは、自分の領域を広げすぎて相手の領域を侵略している状態。

わたしはAタイプだが、母親や長男はAだな……周囲の特性強めの人間に照らし合わせると、はっきり2タイプに分かれる。特性弱めの夫や次男は、確かにどっちでもない、ちょうどよい具合だと感じる。

もちろん特性が強いから自他境界があいまい、というわけでもない。特性が強くなくても、ストレスや疲労が溜まれば境界は揺らぐし、ずっと偏った自他境界の人と一緒にいることで、責任の所在がわかりづらくなることもある。

わたしは、そもそもが自分を否定しがち、マイナス思考、恐怖回避思考の臆病者である。だから、無意識に生きていると質の悪い自責を繰り返して、傷を悪化させたり、病気になるまで自分をいじめるタイプだと思う。

だからこそ、責任の所在を一個一個分けるのだ。

質の良い自責と、質の悪い自責がある

つまり、自責と一言にいっても、質のよい自責と質の悪い自責があるのではないかと思う。

わたしも以前、何も知らないで生きていたときは質の悪い自責をずっとしていた。傷口をいじくりまわし、無意味に反芻して気分を下げていた。それが癖になると、やらずにはいられない。

でも今は、質のよい自責ができるようになった。自分の行動や発言を振り返って、どこが、どうまずかったのか、落ち度を明確にできるようになった。自分の落ち度がわかれば、対策がとりやすくなるし、同じような経験を必要以上に繰り返さなくて済む。

本当に、嫌なことは嫌!だし、不快感やショックへの耐性が低いので、これ以上嫌な気持ちにならないために何ができるかを全力で考えてしまう。究極のめんどくさがりは、めんどくさいことを避けるために、いろんなことを改善したり効率化したりするので結局忙しい、みたいな理屈に似ているなぁ。

まぁ、でも結局これを一言でいえば「経験値」と表現するのかもしれない。わたしは経験値といわれてもイマイチぴんとこないので、こういう理解の仕方になる。

だから「自責はよくない」というのは少々単純すぎる言葉だと思う。他責思考だってよっぽどつらいし、生きにくい。理解もコントロールもできない他人に責任を投げて生きていたら、一生人と関わるのがしんどいと思うのだ。

参考サイト

誰にでもいえる自他境界のお話|ADHD-COACH

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