このブログではさまざまな生きづらさについて語ってきたが、その生きづらさの多くの原因は「自分で決められない」という問題に起因していたように思う。
わたしは、受動ASDだし、親子関係は過干渉だったし、いろいろな理由で自己主張ができなかった。人に流されやすいし、騙されやすい、お人好し過ぎてトラブルに巻き込まれるなどの課題を多々抱えていた。
あの頃は本当に「生きづらい」と思っていた。
でも今は、そうでもない。生きづらいという言葉が、遠い昔の写真に差し込まれたオレンジ色の日付くらいに、懐かしいものになった。
それは、自分で決めることができるようになったからだ。
自分がない理由
何ごとも自分で決められないのは、まず第一に「自分」というものが確立していないからではないかと思う。
とくに、受動ASDは人の言いなりになる傾向が強い。とっさの反応が苦手なので、相手の言うことに対して瞬時にNOや代案を出すのが難しい。
答えを出したとしても、それは条件反射的なものであり、自分の身を守るためや長年積み重ねてきたクセのような反応が出やすいのではないかと思う。
しかし、癖や条件反射で反応していることに気づかず「これが自分の意志だ」と思っていることも少なくないのではないか。わたし自身、条件反射で出したものを、自分の意志や気持ちだと思い込んでいた時期が長かった。
でも今は、自分がどんな性格で、どんな特性をもっているのかとてもよく理解している。だから、その仕様に沿って、最適な方法を考えていけるようになった。
自分をとことん知ったら、まるで機械を動かすかのように簡単に自分に関することをコントロールできるようになった。
ASDのわたしが、何も自分で決められなかった原因
なぜわたしは、何も自分で決められなかったのか。その理由は、3つの要素に分解にすることができた。
受動的な性格
受動的な性格だと、どうしても「自分で決める機会」を逃しやすい。
わたしは幼いころから、親の指示に従順で反発したり抵抗したりすることがなかった。
「ここにいてね」と言われたら、何時間でもそこにいるような子どもだった。
前思春期以降、親に抵抗や反発をしたくても、自分の気持ちをうまく言葉で説明できないので、親と自分の間に大きな溝ができた。
発達障害傾向があると、親は「この子は社会に出てやっていけるのか」「このままで将来大丈夫なのだろうか」と不安視する傾向も強まる。
もしくは親が発達障害傾向であれば、過剰な不安から必要以上に心配したり、自他の境界を踏み込んで支配的になったりすことも少なくない。子どもにあれこれ指示したり、子どもを否定したりすることもある。
親が過保護や過干渉であればなおのこと、自分で何かを決める経験、自分の意思を表明する機会がなくなっていく。
データが足りない
自分で決める、自分の意思を表明する機会が少ないということは、経験値を溜められないということだ。
経験を積めないと、データ不足になる。小さなころから、自分でやる・自分の意見を言う・自分のままで会話するという経験を積んでいないと、圧倒的にデータが足りない。
ASDは、大人になってからも人づきあいを避け、自分の世界にこもりがちになるので、新しい経験値を溜めにくい。受動型や孤立型の場合はとくにそうだろう。
人よりも経験値を溜めるスピードが遅く、その範囲も狭くなりやすい傾向にあると思う。
しかし、同時にASDにとっては経験から得るデータや統計がとても重要な事実だと思う。
こういうパターンではこのように返す、こういうケースではこうしてはいけない、など自分なりに一定のルールを作るには、経験の積み重ねが欠かせないのである。
でも、決まったことを繰り返すのが得意だし、新しい分野にチャレンジする機会が少ない、イレギュラーなことへの対応は苦手だし、特定の分野にしか興味がない。
だから経験値が一向に増えない。いや、増えないわけではないが、人よりもその速度が明らかに遅いのではないだろうか。
アレキシサイミア
わたしは、アレキシサイミアである。アレキシサイミアは、感情があるのに気づかないという性格特徴のこと。
自分の感情を瞬時に認識したり、言葉にしたりすることができない。感情がないわけではないので、時間が経ったり、よく思考をした後に、自分の感情を認識する。
時間差をおいて、まるであふれるようにして湧いてくるが、そのときにはもう相手はそこにいなかったり、すでに対象の事象は過去のものになっていたりする。
これがあると、自分の気持ちに従って何かを決めるというのが非常に難しくなる。
本当は嫌でも、嫌だという感情を認識できなければ、行動につなげられない。
感情がすっぽり抜けているので「スケジュールが空いているから承諾する」とか「説得された理屈に従って行動する」という選択をしやすいような気がする。
生きづらそうな人はいつも他人に答えを求めている
わたしの経験則ではあるものの、周囲にいる生きづらそうな人を見ていると、そのほどんどが大事な決定を他人にゆだねているように思う。
SNSやYahoo!知恵袋を見ていると「彼と別れるべきでしょうか」「親に従ったほうがいいのでしょうか」「転職すべきでしょうか」などの質問が溢れかえっている。
なかには、他人に答えを求めて「わからない」と言うと「わたしはどうしたらいいの!?」とキレだす人もいる。
他人の指示に従うほうが安心なのはわかる。わたしだってずっとそうだった。
不安で依存的で「〇〇するべきでしょうか」と、他人に相談を持ち掛けたことは何度もある。
しかし常に他人に答えをゆだねていると「あのとき何で止めてくれなかったんだ」とか「本当は嫌だったのに」などと責任転嫁をしてしまう。
全部自分で決めていないから、何もかも自分でコントロールできないこの世の中は「生きづらい」と感じる。
人は、自分の状況や人生をコントロールできている実感を得ることで、ストレスに強くなる。コントロール感が高ければ高いほど、ストレス耐性が強くなり、幸福感も上がるといわれているのだ。
「自分で決める」をルール化する
特性の影響やこれまでの環境によって、自分で決めることのハードルがとても高くなってしまうんだろうと思う。
しかし、何事も自分で考えて出した結論を最優先にすることが、人生においてとても重要だ。だから「自分で決めることをルールにする」のが手っ取り早いと思う。
わたしのなかで明確化しているルールは、次の3つ。
ルール①決断は急がない
心配性で不安傾向が強ければ強いほど、早く決めようと焦りやすい。でも、納得いかないまま決断してしまうと後悔が残る。
「あのときもっとよく考えていればよかった」と思うこともある。自分の気持ちが納得いっていないのに、焦って強行突破した場合、その不快さ、気持ちの悪さはずっと後になっても残るものだ。
だから、決断は焦らない。今すぐどうにかしなければいけないような緊急性のないものは、納得いくまで調べたり考えたりして精査するほうがいい。それは統計データをとって分析するのと同じ行為だ。
ルール②考えるときはひとりで
何も、すべての決断をたったひとりですべきと言っているのではない。ひとりで抱えると視野が狭くなるので、よい判断ができにくい。
誰かに相談したり、カウンセリングやコーチングなどを受けたりするのは重要なことだ。
でも、第三者の前で決断をする必要はない。とくに感情の認知が遅い場合は、時間をおいて、ひとりで冷静にならないと自分の感情がわからない。
だからこそ、相談はあくまでも情報収集のひとつにすぎないことを忘れてはいけない。本を読むのも、調べ物をするのも、誰かに意見を聞くのも同じことであり、並列に考える。
ただ「考える」ことと「決断」は自分ひとりでなければならないと思う。
さまざまな要素を総合して、決断のスイッチを押すときは、自分ひとりでやらなければならない。
ルール③自分で決めたことを確認する
自分で決めたのか、他人に背中を押されたのか、どっちなのか判断しにくいようなこともある。
そういうときは、何かを決意するときに自分で決めたことを確認するだけでいいのだ。仮に、誰かに「こうしたほうがいいよ」とアドバイスされたり、背中を押されたりしても、その人が決断のスイッチを押すわけではない。
この人の意見を採用すると決めたのも自分、この人を信じようと思ったのは自分、という見方をすることが大事なのだ。
「自分で決める」ができれば生きやすさが格段に上がる
自分で決めるということは、どんな自分も受け入れるということにつながる。
それがどんな結果になってもよい、という許可である。自分を信じて決断することは、どんな結果になろうとも自分の味方でい続けるという誓いであり、支えだと思う。
「あなたの決めたことなら応援するよ」というのは、他人にかけるセリフとしてよく聞く。でもそれって、結局自分には関係ないから、気軽に言える言葉なのかもしれない。
それを自分に言えたなら、ものすごく生きるのが楽になる。そのためには、自分を信頼できないといけないし、自分を味方だと思えなくちゃはじまらないのだけど。
はじめまして。
娘がASDなのですが、本人は否定的で自分の障害を認めようとしないので自分の状態がわからないままです。発達相談で家族の質問でテストしていただきASDが強く出ているという結果でした。
人にうまく使われてしまったり、性被害
にあってしまったり、困った状態から自分を守らせるにはどうしたらいいのか…
結局、何度もトライ&エラーを繰り返して
傷つきながら生きるしか道はないのでしょうか。あすぴーちゃんなデータベースを読んで、娘と同じだ、と思ってメッセージを送らせていただきました。家族は自分自身をわかっていない彼女をどう支えたらいいのか、と途方にくれてしまいます。
凸ピンさん
こんばんは。
ASDは確かに発達障害なのですが、今は障害という言葉をなくして神経発達症という名称に変更されるなどしています。わたし自身、自分を「障害者」とは思っていなくてですね、そういうタイプの人間としか思っていません。こうして何かを書くためには発達障害を前面に出さないといけないのですが、普段は誰にも言わないし、家族と話すときも発達障害という言葉、ASDという言葉も使いません。「わたしはこうだから」という話し方をします。
娘さんの年齢や、ご家族の関係性、遺伝性などもちょっと何もわからないので何も言えないので、わたしがADHDの母や息子と接して考えたことを新しい記事にしましたのでもしよければ読んでください。ご訪問、コメント誠にありがとうございました。
https://aspchan.com/archives/762