日記

「人の痛みのわかる子になって」と言われたけど全然わからない

わたしは子どもの頃から母に「人の痛みのわかる子になってほしい」とずっと言われてきた。

母にはいろいろなことを言われた。たとえば「エリートと結婚しなさい」とか「キャリアウーマンになって」とかまぁいろいろ。

でもそんなのは母の気まぐれというか、頭の中のストーリーのひとつなので、全然今は気にしていない。

でもいちばんひっかかるのは「人の痛みのわかる子になってほしい」という言葉だ。

この意味を考えると、おそらく

「つらい思いをしている人に寄り添える人」とか「思いやりがあって温かい心を育ててほしい」とか、なんか、いろいろな言い方に変えられると思う。

とにかく、つらそうにしている人がいたら手を差し伸べられる人になってほしいということなんだろうなと思う。

わたしは、他人の痛みがわかる人になれたんだろうか。

感受性の強い自分を演出した

母は、すごく感受性が強い。

テレビの感動話ではすぐに涙するし、捨て犬や捨て猫を拾ってきて懸命に世話したりする。

でも、わたしは全然そうじゃなかった。

感動話で心から涙したことがない。大人になってからは映画を見て泣くことも稀にあるが、正直「感情移入」というのもをしたことのない子どもだった。

でも、親しくしていた友達がすごく感情移入しやすい子で、教科書で扱う戦争の話で号泣したりしていた。

母も、友人も、そういう感受性の強い人だった。そういう人と一緒にいる時間が長かった。

すると「感情が動かない・泣かない自分っておかしいのかな」と思い始める。

だからわたしは、とくに悲しくなくても、よく理解できなくても、頑張って泣いた。

演技だ。

でも、それが「なぜそんなことをしたのか」がよくわからないままだ。

別に、心優しい人に見られたかったわけじゃない。人前では泣かないほうがいいことも知っていた。

でも「親しい人がそうしている」というだけで、そうするものだと思い込んだ。悲しくなくても、自分の過去のつらかったできごとをいっしょうけんめい反芻して泣いた。

すると、その場にいる誰よりも号泣していたりするもんだから、周囲には「すごく感受性が強くて涙もろくて繊細なんだね」と言われた。

わたしは、そうであろうとしていたんだ。

好きな人が死んでも「悲しい」がわからない

わたしは近しい身内を亡くした経験がないので、今のところ強烈な喪失体験の話をすることができない。

でも、わたしは音楽が好きなので、大好きなミュージシャンが何人も過去に亡くなった。本当に、なんで神様はわたしから好きなものをどんどん奪うんだろうと思うくらいに、好きなミュージシャンがどんどん死んでいく。

でも、なんか、悲しいと思えないというか、わからないというか、むしろ遠ざかってしまう。

昨年はあるアーティストが55歳で亡くなった。彼のことは15歳のときから大好きで、日本で一番好きなミュージシャンだった。

男性としてもカッコイイけれど、なんというかもう、なぜわたしはあの人に生まれなかったのかと悔やむくらい大好きだった。

でもさ、悲しくないんだよね。

SNSでたくさんの追悼コメントを見た。なんでみんな、そんな風に言葉を発せるのだろうと不思議で仕方ない。なぜそんな風に、気持ちを言葉に形容できるんだろうって思う。

わたしは今も何も浮かばない。というか、彼が死んだことに触れたくない気持ちが強い。認めない…のとも少し違っていて、彼が死ぬことなど最初から分かっていた気がしたりとか、それが彼だとしか思えないというか。

だから、何も言葉が浮かばないのだ。

本当は誰のことも好きじゃないのかもしれない

こういうことが、たくさんある。

みんなが悲しんでいるのに、自分はよくわからない。

悲しむために、悲しい気持ちを、かんばって作ろうとしてしまう。

子どもの卒業式でみんなが泣いているのに、なぜか自分は泣けないし、逆になんだか白けてしまう。(もちろん全員が泣いているわけじゃないんだろうけど)

そういうことがあまりにも多いと、だんだん「自分って誰のことも好きじゃないし、誰のことも本気で考えていないんじゃないか」という気さえしてくる。

一般的に、そうであることに乗れない。

たとえば、記念日を大事にするとか、プレゼントを喜ぶとか、褒められて嬉しいとか、そういう一般的なことにうまく乗れない感じ。

でも、悲しそうにしたほうがいいのだろうかとか、喜ぶべきなんだろう、というように「こういうときはこうする、こういうときはこうしない」みたいなパターン的なものに翻弄されている感じ。

どんなところで感情が動くのか?

本音を言えば、わたしは「どんなところで感情が動いたっていい」し「感情が動くであろうところで動かなくてもいい」なんだよなぁ。

だからもう、だいぶ大人になった今は、周りに合わせて感情が動いているふりをしなくなった。

悲しくなきゃ、何も言わないし、頑張って泣かないし、黙っている。子どもにも「悲しいよね」「寂しいでしょ」と強要しないようにしたりしている。

心が動く場所って、人によって違うと思うんだ。

『80万人が涙した!』など謳ってる映画だって、それ本当かどうかわからない。人が死んだって、悲しむどころかほっとしたりほくそ笑んだりする人だっているよ。同じできごとでも、人によっていろいろな意味をもつのができごとなんだし。

わたしは前々から言っているけれど、空気が変わったり、緊張がほどけたりするところで泣く。

たとえば張り詰めた緊張感の中で音楽が切り替わったりすると、その空気感がガラッと変わるから、その変化で泣いてしまうことがある。(これ感動とは別だと思っているけど)

あとは、本音とか自分の気持ちを誰かに話すときには泣いてしまうね。

張り詰めた緊張感に耐えられないからだと思う。全然、感動とか、悲しみ寂しさ、ではないんだよね。実に生理的な人間だなと思う。

そういう自分が、なんだか冷たくて、後ろめたいなってずっと子どものころから思っている。

人の痛みがわかる子にならなきゃって思って、悲しくなくても、人が泣いてたら一緒に泣かないといけないって思いすぎた。

わたしはきっと人の痛みなんかわからない。

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