女性のASD

ASDの「好きなことや趣味の義務化」について

好きで始めたことがいつの間にか「やるべきこと」になって苦しむことはないだろうか。もしくは、趣味をただの息抜きと捉えることができずに過剰な成長やノルマを課してしまう、といったことがあるかもしれない。

わたしの場合も、このようにブログを書いている中で意識しているのは「これは、義務や業務ではない」と定期的に意識することだ。わたしはこのブログは自分の頭の中の整理や、発見や感動からおこる感情の揺れを表現するために書いている。それはいわゆる「趣味」である。

しかし、ASDの特性上「楽にやる」「ゆるくやる」ということが非常に難しい。だからこそ、定期的に「好きなことを義務化していないか」と自分に問うようにしているのだ。

ここでは、ASDの「好きなことの義務化」について深堀して考えてみようと思う。

そもそも「好きなこと」とは何か?

「好きなこと」という言葉はとても広い範囲を指す言葉で、自分にとってどこからどこまでが「好きなこと」に分類できるのだろうと考えることがある。そもそも、好きなことはどこからどこまでのことか、とやたらに分類したがること自体がASDらしい考え方なのかもしれないが。

わたしの場合はこんなことを「好きなこと」として分類している。

  • 文章を書くこと
  • 興味のあることを調べること
  • 本を読むこと
  • 手芸

ただ、この中のすべてがただ「好き」だけでやっているかというと、実際はそうでもない。文章を書くのが好きなのは、話すのが苦手で書く方が合っているからだ。興味のあることを調べるのが好き、というのもわからないことや疑問なことが多すぎる、周りに教えてくれる人や語り合える人がいない、だから調べるしかない→楽しいと感じる→という流れで「好き」に発展しているのだと思う。

本を読むことも、純粋に物語を楽しむためだけに読むというよりは、人の気持ちや社会、自分の知らない世界のことを学び取るために読んでいる側面がある。わたしは精神医学や発達障害系の書籍を読むことも多いが、それも「自分を知るため」にはじめたこと。

結局、純粋な「好き」とはなにかがわからないまま今ここにいるような気がする。だからこそ「好きなことを伸ばしていこう」「好きなことをする時間を大事にしよう」という言葉の意味がイマイチ理解できないことがある。

唯一、手芸は完全に自分のためだけにやっていると思う。直感的に柄や配色を選んだり、無心でミシンを走らせることで右脳が活性化するのがわかる。それに「やらなくてもいいことを、あえてやる」のだから、それは単純に好きなことになるのだろうと思う。

わたしは、ニュアンスを理解するのが難しいので、言葉の意味を正確に捉えようとする。だから、いつもこんな感じで言葉の意味を追求していく。「好きなこと」というたったひとつの言葉からも、自分の生活や頭の中のいろんなことが見えてくる。

ASDの「趣味の義務化」

言葉の深堀はさておき、ここでは漠然と自分の中で「好きなこと」に分類されているものを「趣味」と呼ぶことにする。ASDは趣味を義務化してしまうために、それが息抜きの目的を果たさず使い物にならなくなることがある。

もしくは、好きで始めたことが業務のようになっていくため、自分の中の「やるべきこと」がどんどん増えて逆にストレスになる、時間が足りなくなって多忙になりすぎることもある。

本を読むのが好き、図書館に行くのが好き。でも、予定していた日に図書館に行けなければそれ自体がストレスになる。本を読むという日課が達成できないと、自分を責めてしまう。

twitterが義務化してつらくなったこともある。もとはと言えば、ちょっと頭に浮かんだことや気持ちの吐き出し口として気軽に使うつもりだった。多くの人がそうしているはずだ。

でも、いつしかわたしの中でtwitterは日々の業務タスクになった。「1日1回は何か書かなければいけない」「チェックしなければいけない」「本を読んだら感想を記さなければいけない」と自分にどんどんルールやノルマを課してしまうので、ある種の仕事になる。

ゲームなども同じで「楽しい」という理由ではじめても、次第にレベルを上げることや技術を高めること、効率的に進める方法などを考え出すようになる。当然、考えることが多いので多大なるエネルギーを使うのだ。

誰もそんなこと求めていないし、指示されたわけでもない。でも、自分の中でいつのまにかルールやマニュアルができてしまって、それに従わないと気が済まなくなる。

「やめればいいのに」と、誰もが思うだろう。でも、そんなに単純な話ではない。自分の中のルールを破ることや、今までのルーティンを崩すことに強い抵抗を感じるので「やめる」ことにもストレスが発生する。

ただ単に「その時間を楽しく過ごせばよい」と考えることは不可能なのだ。結果的に、苦しくなってやめてしまったりすることもあるが、またその「やめる」ことにもストレスがかかっていく。ほどほど、適当、が本当に苦手なのだ。

趣味を義務化してしまうことの何が問題か?

趣味を義務化してしまうことのデメリットは、単純に疲れるという意外に大きく2つある。

1.何かを始めることへの抵抗感

「何かを新しく始める」ということにも、趣味の義務化が関係してくると思う。わたしはあまり新しいことをどんどん始めるタイプではない。

やりたいことや興味のあることはいろいろあるけれど、それが自分の中で義務化していくことがわかっているので「続かなくてやめる」ことへの恐怖感が強い。

たとえば、ずっと前から絵画教室に行きたいと思っているけれど、仮に何らかの都合でそれをやめるときのことを考えると、本当に今それをやるべきか?を慎重に考える。

何か物を買うときも「使う」習慣と「使わない習慣に戻す」の2つの未来があることを考える。そうすると結果的に「いらない」という結論になる。

「やりたいと思ったらそのとき行動しよう」という考え方もある。そうすることで人や物事との縁がむすび、人生が変わっていく。パラレルワールドが広がる。

確かにそれも大事な考え方だし事実だと思う。しかし「自分の中に新しいルールを作る」ことも「既にできたルールを撤廃する」ことも、ASDにとっては大変なことなのだ。

だからこそ、あまり変化がなく、同じような日常を淡々と過ごしているほうが安心で、快適に過ごせる。

しかしそれは周囲から見ると「ずっと同じ毎日」「家にいてばかり」とだけ映って、あまり好ましくないように思えるのだろう。

2.「好きなこと」がなくなっていく

好きで始めたこと、興味を持って取り組んだことも次第に義務になり、業務になっていく。すると「好きなこと」がどんどんなくなっていくというのも弊害だと思う。

趣味をもっていても、それは「楽しく時間を過ごすためのもの」ではなく「極めるもの」になっていくと、疲れてしまうのだ。

好きなことや得意なことを突き詰めていって、結果的に仕事につながったりした日には、大変だ。それがもう「趣味」ではなくなってしまう。

わたしの場合はまさにそうで、文章を書くことも、調べ物をすることも好きでやっていた趣味だったが、外で働くことが難しいためにその武器をライターという仕事にできるようになった。

もちろんそれは良い側面だが、自分の好きなことを、純粋な趣味として残しておけなくなった気もする。

ASDは趣味の義務化をどう捉えればよいか?

このように、好きで始めたことや単なる趣味を趣味としておけないこと、好きなことを楽しい時間の消費と考えられないこと。

これは、周囲からみたら「なんでもそうやって真面目に取り組めるなんてすごいじゃないか」と思われるだろうし、自分でもこの特性がうまく活かせることは大いにあると思う。

でも、当人としては非常にしんどいものだ。エネルギーをたくさん使うし、気が休まらないし、純粋な趣味がなくなっていくし、忙しくなってしまうし。

だからこそ、最初から趣味に対するルールを作っておくことが大事なのではないか、とも思う。何のためにこの趣味をやっているのかを、ちゃんと自覚しておくのだ。

たとえばわたしの場合、手芸だけは完全なる自分のためだけにやる趣味として、残している。成長しなくても、毎日やらなくても、雑でも、本来のやり方と違っていてもいい、というルールを作るのだ。

そのためには

  • 専門書の通りにやらない
  • 勉強しない(直感的にやる)
  • 作ったものを人にプレゼントしない
  • 手芸が得意なことを必要以上に言わない(頼まれたりするので)
  • 仕事にしようとしない
  • ノルマを作らない
  • やりたくないことはしない

などなど、自分なりの趣味ルールを作るのだ。本当に大事なものは、自分の世界だけでまもっていく。成長や技術力の向上、タスク化を意識しないというルール

どこまでもルールが大好きなASDは、自分の好きなことや自分自身の世界を守るためのルールもしっかり制定しておくとよいと思う。

「ルールを課さない」という考え方は難しい。ゆるく楽しむとか、テキトーにやるという考えはできない。だからこそ「真面目にやらない」というルールを作るのだ。

まぁ、そこそこまじめになってしまうけど、このルールがあることで、その趣味に苦しめられたり余計なノルマやタスクを増やしてつらくならないようにという意識はうまれやすぐなるような気がする。

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