人間関係

変わった人たちとは?マイノリティ(少数派)要素を複数持つ生きづらさ

変わった人とは、どんな人なんだろう。「変わった人」の定義はとても曖昧だけど、変わった人は生きにくさを感じることが多いかもしれない。

他人が悩まないとことでつまずき、他人が何も感じないところで傷ついているかもしれない。逆に、人がなぜそのことで悩み、傷つくのか理解できないこともある。

今日は「変わっている自分はおかしいのではないか」と思っている人に向けて、わたしの考えを語ろうと思う。

変わっている人とは「人との共通点を持ちにくい人」

「変わっている人」とは、人との共通点が少なく、誰かと自然に共感したりわかり合ったりする機会や経験が少ない人のことをいうのではないかと思っている

たとえば、幼いころから人気のゲームや漫画に興味を示さず、ずっと動物の絵を描いている人。誰かと「共通の話題」で盛り上がることに価値を置かず、自分の興味の赴くままに行動する人がいる。

マニアックな映画や音楽ばかり好む人もいる。王道のものを知らないのではなく、自分の好きを突き詰めていくと、狭く深いところに辿り着いてしまう人。

また、考え方や感じ方といった「感性」が人とマッチしにくい人もいる。

友人は一生の宝だと思っている人もいれば「友人なんて必要ない」と思う人もいて、「恋愛経験はそれなりに多い方が人生勉強になる」と思っている人もいれば「人は恋愛にばかりうつつを抜かして滑稽」と思っている人だっている。

そして能力もそうだ。「学校の勉強なんて授業をしっかり聞いていればわかる」という人もいれば、一語一句聞き漏らさないようと頑張って聞いていてもついていけない人もいる。

人生観、感じ方、ものの見方や考え方さえも多数派(マジョリティ)と少数派(マイノリティ)にわかれる。生まれる家、育つ環境、出会う人、趣味嗜好、能力、考え方などすべてにおいて。

たとえば「この色が黄色だと思うかオレンジだと思うか」「朝はパンより米派」「という微妙な違いさえも、大多数と少数派がいる。どんなにちいさなことでも「普通そうでしょ」という漠然としたラインがあったりするだろう。(それが全く普通などではなく、間違っていることもある)

わたしは「変わった人」というのは、このいくつもの分野において少数派(マイノリティ)な人、たくさんのマイノリティを抱えた人だ思う

人間はみな他人と違っているはずで、ひとりひとり個性がある。でも、それが社会の中で目立ってしまうときに「変わった人」とか「あいつは変な奴」と認識されてしまうのだろう。

そして、一つの部分で少数派になると、他の部分でも少数派になりやすい…というように連動しているように思う。

少数派は人と分かり合う経験・事柄が少ない

少数派、マイノリティな要素をたくさんもっていればいるほど、人と心から共感したり分かり合ったリする経験・事柄が少なくなると思う。

8割の人と同じような家庭環境に育って、6割の人が素敵だと思うものを好きになり、9割の人が知っている有名なアーティストのファンで、7割の人が感動する映画に感動し、3割の人が経験する仕事に就いて、6割の人と同じタイミングで就職、結婚し……

というように、人生における一つひとつのことに「人とどれだけ共通しているか」は大きな意味を持つと思う。

比率は、人によってバラバラだ。

2割の人しか経験しない家庭環境で生まれ育ち、1割の人が知っている音楽を心の支えにしていて、3割の人しか知らない映画が好きで、1割未満の人が経験する仕事に就き、1割の人と同じタイミングで就職や結婚をするという人もいる。

もちろん、同じような群の人で固まってコミュニティを築いていることもあるが、そうでないことも多い。群を作ることに興味がなかったり煩わしく感じる人は、たくさんのマイノリティを愛しながら一人でこぢんまりと暮らしているのではないか。

人は誰かと共感したり、わかり合ったりすることで、社会的感受性を高めていく。共感性が高いほど対人関係は円滑になり、人の気持ちや些細な変化に気づいて行動する社会的感受性が高まるといわれている。

複数のマイノリティが重なることで、社会的な感受性が低くなるのは仕方がないこともである。

共感やわかり合う経験の少なさによってマイナス思考になる

人と共感したり、わかり合ったりする経験が少ないと、マイナス思考やネガティブな想像をしやすい。社会の中で生きていく上で「自分は受け入れられないのではないか」「自分の味方などいないのではないか」そう思って、心を閉ざし気味になることもある。

人から受け入れられたり、同じものを見て楽しんだりすることは、プラスのエネルギーを産む。しかしマイノリティだと、そもそも人と同じものを見て楽しめいし、自分が楽しんでいるものやことに人が興味を示さない。

自分が悩んでいることを他人は理解できないし、他人が悩んでいることがどれだけ重要か、こちらもわからない。

もしくは変わっていること、目立つことで人から攻撃されたり、いじめられたりすることもある。出る杭は打たれるというのは、確かな事実だと思う。

人に受け入れられるために、自分を捻じ曲げるか、それとも自分を守るために人間関係をあきらめるか、どちらかになりやすいように思う。

マイナス思考やネガティブな想像は「不運」につながってしまうこともある。

複数の不運が重なることもある

マイノリティ要素を複数持っていることで、気持ちを病んでしまう人もいる。このような場合、複数の「不運」が重なっていることもある。

ある精神科医の言葉に、とても興味深い一言があった。「精神科に来る患者さんは、いくつもの不運が重なっている」という言葉。心を病んでしまったり、人生がつらくなってしまうのは、たった一つの不幸のせいではない。「不運」が重なって、雪だるま式になっているんだと。

生まれる家・出会う人・進学や就職・自立・恋愛・結婚・昇給昇進・死別・介護……ライフステージごとにさまざまな不運が起こる。

そのような不運は自分で引き起こしているともいわれるが、子どものころのことは自分のせいではないことも多いし、不運のすべてが自分の引き起こしたことであるはずもない。

人生の最初の方で、複数のマイノリティを持っていたり、複数の不運が重なることもある。反対に、マイノリティをもっていても、複数の幸運に恵まれることもある

「変わっている」と悩むことなかれ

自分もまだ若者に入るのだろうか。わたしはこの年齢になって複数のマイノリティを自覚するし、いくつかの不運が重なった時期もあった。「変わっている」人だったかもしれない。そして人と心から共感できなかったり、わかり合える経験が少なかったことで「変わっている」ことは悪いことであり、間違っていることだと思っていた時期もあった。

しかし「変わっている」とは、複数のマイノリティが重なりであると考えれば「おかしい」「間違っている」「劣っている」わけではないことがよく分かった

世の中では「変わっていることを理由にいじめられる」「8割の人と同じ考え、行動で動けないので嫌われる」という現象が起こってしまう。

でもそれは、劣っているわけではないし、おかしいわけでもない。かといって優れているわけでもない。ただただ「そういう自分がここにいる(ある)だけ」なのだ。

ただそこにあるだけでいじめられたり嫌われたりするならば、それは不運だと思う。ただ不運というのは、工夫していくことではねのけることができる部分もある。

自分の責任である部分、自分に責任のない部分を分けて「自分がただそこにある」ということを実感できればと思う。

何よりも、変わっていることに悩むことなかれ、である。「変わっている」という表現は、社会全般で見たときに違いが目立つということ。自分は何も変わっていないし、ずっとただここにあるだけなのだ。

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