わたしは人と集まるのが苦手だ。
最初にそれを強く感じたのは高校生の頃。わたしは当時音楽が大好きだった。通信制高校に通っていて、軽音楽部に入った。
不器用なので楽器は弾けないけど、歌なら歌える。
音楽が好きな人が集まっているのだから、きっとみんなと色々な音楽について意見交換できることだろう。わたしの知らない新しい音楽を教えてもらえるかもしれない。音楽を通じて人と繋がることもできるかもしれない。
そんな期待をして、軽音楽部の門を叩いた。
しかし、そんな期待は呆気なく打ち砕かれた。
軽音楽部の女の子たちは「あいつがウザい」「あの男はカッコいい」などという話ばかり。
男は男で女の子の話や授業がだるいなどの話ばかりだった。
わたしは内心、とてもがっかりしたし、居心地が悪くて入部から1年でやめてしまった。
その場所では、思う存分音楽の話ができると思っていた。音楽を好きな人たちは、自分に似ていて、自分の考えや行動に近いものを持っているのではないかと期待した。
でも実際、そんなことはなかった。
グループがあり、いじめが起こり、誰と誰が付き合ってるとか、あいつとあいつも付き合ってたけど別れたとか、そんな話ばかりで苦しかった。
なんでわたしはここにいるんだろうと思った。
人が集まる目的を考えてみる
人は何のために集まるのか。
わたしはいつからか、常に目的思考になっていった。 この場所に行く目的。 この人と会う目的。 この活動をする目的。 すべてに目的を持つようになった。
いつからそうするようになったのかはわからないがいつの間にか身に付いていた。
ただ、常に目的思考のわたしはどこにも馴染めなかった。例の軽音楽部では明らかに溶け込むことができなかったし、大人になってからも人の集団やコミュニティというのはあまり居心地のいいものではなかった。
でも、そんなことは当たり前だと思っていた。それが寂しいとか、つらいと思ったのだろうか。
何となくいつも、自分だけ目に見えない膜で覆われていて、別の世界に生きているような気がしていた。
「わたしもみんなのように人と仲良くなれたらいいな。でもまぁ、無理だよな、アハハ!」
そうやって一人芝居するような気持ち。
集団の中で心から楽しめることなどあり得ないと、わかっている。
目的思考になったのは、場に馴染めなかったからなのか。元々目的思考だから、馴染めないのか。どちらが先なのかよくわからない。
物事に対する優先順位の付け方
ここで考えついたのは「そもそも、人によって特定のものごとへの優先順位のつけ方は違っているのではないか」ということ。
人と集うのが好きな人は「他の何かのために」ではなく「人と集まる」ことが目的で「そこで何をするか」は手段なのかもしれない。
たとえば、わたしが馴染めなかった軽音楽部の人たちは「人と集まる」ことが目的で、音楽はその名目や手段だった。
わたしのような人間は「音楽について語る」という目的が先なので、「人が集う」というのは結果論なのかもしれない。
ものごとの優先順位が異なるのだ。
目の前にいる人と打ち解けるために共通点を探せる人と、自分と相手の共通点ありきで人と打ち解ける人がいる、ということとも似ている。
わたしはどうも後者の方なんだろう。
「何のために人と集まるのか?」を考える人と「人と集うために何を名目にするか?」を考える人がいるのではないだろうか。
わたしは若いころは「わたしみたいな人間はダメで、彼らのようにワイワイ楽しく生きられるのがよい」と思っていた。
もしくは「わたしみたいに目的思考で無駄のない性格の方が優れていて、彼らのように人と集まってワイワイやるのは浅はかな行為」などと見下すしかなかったこともある。
結局どっちがよくてどっちが悪いというジャッジをしていた。
もともと種が違っていて、タイプが異なるということに気づかずに「どっちがいい」「どっちがダメ」というジャッジをしていた時期もあった。
しかし今思えば、ライオンは集団で行動するが、ヒグマは単独行動が基本だというのと同じなのではないか。(やっぱり人間も種の分類がある程度必要だと思うのはこういう理由でもある)
対人関係は「目的」の一致がすべて
人間は、目的がマッチしない相手とはうまくやることができない。
しかし、互いに目的が一致していれば、わたしのような人間でもコミュニティを形成することができると思う。
あるいは、物事の優先順位が大体同じ人であれば、人と集まることもできるし関係を深めることもできる。
「目的」と「手段」が逆になっているようなコミュニティや人とはうまくいかないだろう。集団だけでなく、1対1の関係でも同じである。これは目的のない雑談が苦手という部分にも通じるかもしれない。
そしてASDの独特な友人観にも関係があるように思う。
居心地の悪い場所、どうもうまくいかない人間関係は、目的が異なっているのではないかと思う。
相手が求めていることと、自分が求めていることが違っていたり、その比重がちょっと違っていたりする。
求めているものやその比重が、自分とぴったり合うコミュニティはないし、そんな関係性になれる人はなかなかない。
そしてそんな「なかなかない関係」をひとりでも持っている人は、どんなに他で馴染めなかったり、人と集まるのが苦手だったりしても、けっこう強く生きられるものである。