ASDは友達がいなかったり、孤立しがちだったりすると言われている。もちろんその傾向があるというだけであって、みんながみんな友達がいないわけでもないし、孤立しているわけでもない。
わたし自身友達はとても少ない方なのだけど「友達」について考えるときに、そもそもどの人を友達と定義するか?という部分にまずひっかかる。そして、友達とはなにかを考えていくと、アスピーの独特な友人観が見えてきてとてもおもしろいと感じるのだ。
わたしの友人観は、どこか非常に機械的というか、非情緒的なところがあると思う。極端に言ってしまうと「損得」で付き合う人を選んでいるような気がするのだ。
損得といっても、あくまでも「自分にとってのメリット」であって、社会的な見え方や、金銭的な利用価値などという意味ではない。自分の中に形成されている「世界観」にとって、相手の何が、どうプラスになるか、という視点で友人関係を築いているように思う。
もちろん、その逆もあって、自分の世界観に対して、相手の何が、どうマイナスになるかを分析するのだ。
受動ASDタイプのわたしの友人関係パターン
わたしは基本的に受け身型のASDである。だから「来るもの拒まず去る者負わず」のスタイルしか取れない。「素敵だな」「仲良くなりたいな」と思う人がいたとしても、その人がわたしに興味を示してアクションを起こしてこないのなら、自分から関わろうとはしない。というか、そのやり方がわからない。
来るもの拒まずスタイルでいると、誰かしらが自分に興味を持って接触してきてくれる。そのなかには、自分とフィーリングの合う人もいれば、全く合わない人もいる。
前者、フィーリングの合う人は、平均して5年間の間に一切の違和感や不快感を示さなければ、その後も付き合いが続く。だから「この人はわたしの友人だ」と認識できるまでに、少なくとも5年はかかっていることになる。
5年という年月はわたしにとって、人と人との相性を見極めるのに最適なスパンだ。5年もあれば、人間は生活環境やライフステージ、価値観なども大きく変わる。
状況が変わってもなお、付き合いたいと思う、自然に関係が続くということは、その人と自分は互いに必要としあっていて、相性も良いのだとわかるのだ。
来るもの拒まず去る者負わずスタイルでは、当然自分とは合わない人も近づいてくる。この交わし方は非常に下手だ。まず、相手が自分に何を求めているのかを察知するのが苦手なので、厄介な関係性になってしまうことも多い。
わたしを、何かしらの部分で利用する意図で近づいてくる人も少なくない。最近はようやく少し、見極められるようになってきたが、最初は馬鹿正直に相手の言うことを信じ、尽くしすぎてしまい疲弊していた。
ASDは騙されやすく、利用されやすいというのも特徴のひとつだと思う。最近は、今までの自分の統計上から導き出した「受け入れ不可人の特徴」を意識する。近づいてくる人の言葉や行動パターンが、今までの失敗例に似ているときは、大きく距離をとるようにするのだ。これは男女関係でも同じことがいえるだろう。
そんなわけで、わたしは今まで自分から働きかけて友人になった人が1人もいない。仕事や子育て、地域活動などに関係なく、純粋な「自分の友人」と呼べる人の数は1人だ。
友人は自分の世界観構築のピースである
わたしにとって友人は、自分の世界観を構築するときに必要なピースだと思っている。パズルを完成させるには、ピースが必要だ。
自分の世界を完成させるために、友人が必要。だから、相手のプライベートにはほとんど関心がない。相手が今何をしているかとか、自分以外にどんな人と仲良くしているのかなど、一切興味がない。
たとえば、ときどきカフェでお茶をする友人がいたとする。その人との時間が、自分の世界においてどういう働きをするかが重要であり、その友人に執着はない。
もしも仮に、急に会えなくなったり、疎遠になってしまったとしても、あまり悲しいとは思わない。残念だとは思うが、悲しみはない。(残念と悲しいは一緒だという指摘もありそうだが、わたしの中では違うものだ)
自分が「この人は自分にとっての友人だ」と思ったのなら、その人とは別にしょっちゅう会う必要なんてないし、遠くに行ってしまっても、もう二度と会えなくてもかまわないのだ。ときどき思い出すだけで十分であると思う。
自閉症スペクトラムの女の子が出会う世界という本の中にも、同じような一節がある。
彼らのことが大好きで、幸せを気にかけているけれど、一緒に過ごせなくてさみしいとは思わない。誰かと二度と会えなくなったとしても、あまり気にしないだろう。
自閉症スペクトラムの女の子が出会う世界 p198
自分にとって、友人がパズルのピースだと感じるというのは、相手を物として扱うようなことではない。相手の幸せを願っているし、相手にはいつも楽しい気持ちでいて欲しいと思う。友人と認めた人のことは、心の底から大好きなのだ。
でも、一緒に何かをすることや、ずっと変わらぬ友情を誓い合う必要性を感じない。自分も相手も、いつも自由であってほしい。もしわたしに声をかけてくれなくなったら、そのときは相手が別のステージ、もしくは別のコースに行ったのだと思う。ただそれだけだ。
結局は、やはり自分中心の世界を生きていて、自分の世界観を構築することしか興味がないのだ。
ただ、もしかしたらそのせいで相手を悲しい気持ちにさせていることがあるかもしれない。わたしに周りが合わせてくれているから、成り立っている世界なのかもしれない。その可能性はいつも考えている。みんなの優しさあっての、自分の世界だということ。
ASDではない人の友人関係とは
ASDではない人にとっての「友達」について考えてみたことがある。
わたしの知人は、「何かを食べに行きたい」と思ったときに「友達を誘ったけど、誰も捕まらない。このままだと一人で食べに行くことになる」と言っていたことがあった。
なるほど、この人は「したいこと・行きたい場所が先にあって、それをさらに楽しむために友人を誘うのか」と感心したことがあった。
この部分に、ASD傾向の強い人と、ASD要素のない人の明確な違いがあると思った。ASD要素のない人にとって、友人とは、ものごとをさらに楽しくさせるスパイスのようなものなのだろうか。
「みんなで食べるとおいしいね」という小学校の先生の言葉、「どうせ行くなら人数が多い方が楽しいよね」という漫画の一節のような。
わたしは、自分のしたいことをするには、自分ひとりでなければならない。もし、誰かと一緒に何かをする場合、それは「人と時間を過ごすこと」がメインイベントであり、食事や遊びの内容、行先はなんでもよい。(一緒にスポーツやキャンプ、旅行などはできないが)
わたしにとっての友人付き合いは、自分のこだわりも欲求もすべて捨てて、人と時間を過ごすことだけに集中すしなければならない。それがどれだけ楽しい時間だったとしても、すごく疲れてしまうことなのだろう。
「関わる人リスト」をつくる
わたしは、自分の好きな人だけを集めた「関わる人リスト」を心の中にもっている。
関わる人リストには、自分が本当に大好きな人しか入れない。わたしの現在の関わる人リストは、4人。夫を含めれば5人。4人の中には、毎週会う人もいれば、数ヶ月に1度だけ会う人もいる。どれも、プライベートな時間を一緒に過ごす。
この関わる人リストの中にいる人を、一人ひとり観察してみるといろいろなことが見えてくる。深く長く友人関係が続くのは、自分と似たような特徴や性格傾向の人かというと、案外そうでもない。真逆の部分をもっていたり、自分にないものをもっていて憧れていたりする部分もある。
全員に共通する部分があるとか、自分と関係が続く理由、自分と相手はどこが似ていて、どこが対局にあるのか……というのを考えてみるとおもしろいし、今後の友人関係の維持にも役立つと思う。
確かにASDは自分中心で、自分の世界だけで生きているのだけど、やっぱり気遣いや思いやりというのも必要だろう。大切だと思った人との関係を維持する努力は必須だ。でも、自分のまんまではちょっとまずいことも多い。だから、わたしはやっぱりここで分析や、行動のプログラム化などが必要になる。
大人同士の付き合いは、やっぱり難しい。でも難しいぶん、貴重な出会いや縁の中から生まれる発見や感動が、よりいっそう強く感じられることもある。
私も最近アスペルガーって自覚した女性で、この記事の内容、見える世界の感覚、本当にわかります!!
父親がアスペルガーだけどそれを活かしてビジネスでうまくやってる人で、もう別居してて
いまは母親と妹と暮らしてますが、母親は健常者でまったく感覚が合わず、、
何も人生の参考になりません。
どんな世界観を作るか、で生きてくのが大事ですよね。その作りたい世界観が、あやふやです。
marihanaさんこんにちは。
共感してくださりありがとうございます。
私も父親と考え方やタイプがそっくりで、母とは真逆ですね。
「作りたい」という感じだと理想像のような感じですね。
私の場合は「今まで、こういうところがダメだ」と思っていたことを
「それでいいのだ、なぜなら私の脳がそういう脳だから」にしたら
めちゃくちゃ楽で、好きな世界観になっていきました。