前回の記事「愛想がないと言われるので、自分の姿を撮影してみた」で
“人を不快にさせないことは大事”だと書いた。
このことについて、もう少し深く考えてみた。
人を不快にさせないことなんて、果たして、できるのだろうか。
そもそも「不快になる」のは相手の勝手で、わたしの責任ではない。
相手が不快になる・ならないはわたしがコントロールできることではない。
でも、わたしは「人を不快にさせないように」と努力している。それがあたかも「よいこと」のように思っている。そうせずにはいられないし、努力しないと自分を保てない。
これってなぜなんだろう?
対人恐怖傾向
今日の仕事で、社交不安症や対人恐怖症について調べる機会があった。社交不安症とは対人恐怖症の新しい名称で、人に見られる社交の場での不安や恐怖が生じるものを指す。
対人恐怖症は、社交不安症の中に含まれるようになったが、厳密に言えば両者は別の意味を持つ。
社交不安症:他人に注目される場面で、恥ずかしい思いをすることへの不安
対人恐怖症:自分が他人を不快にさせていないかについての不安
社会的交流において、自己の外見や動作が他者に対して不適切または不快であるという思考、感情、または確信によって、対人状況についての不安および回避が特徴である文化症候群である
DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル
わたしは「自分が他人を不快にさせていないか」についてけっこう気にする。失礼だったのではないか、見当違いな返しをしたのではないか、あの場面であれは言わない方がよかった、などなど。「不適切だったのではないか」という思考はかなり多い。
それは「自分がどう思われるか」というよりも「相手が不快な思いをしたのではないか」という不安がつよい。「傷ついたんじゃないか」とか「うっとおしかったんじゃないか」「がっかりしたのではないか」などなど。
わたしはときどき対人恐怖が出てくることがある。生活できなくなったり、引きこもったりするようなレベルではないので、病気ではないだろう。でも、行き過ぎた考えや不安がとまらなくなることはよくある。
また、視線恐怖が強くなることもある。たとえば、人が自分の行動をチェックしているような気がしたり、監視されているような気がする、うわさされていると思ってしまうなど。
思えば子どもの頃から、ランドセルに盗聴器や監視カメラをつけられているんじゃないかと不安だった。わたしはこれを「妄想」と呼んでいたのだけど、対人恐怖の一種だったのだろう。
つまり、対人関係に自信がないのだと思う。
対人恐怖は偏桃体の過剰反応
これらの恐怖や不安は、偏桃体の過剰な反応からきている。偏桃体の反応は通常、前頭葉が抑える役割を担っているが、社交不安や対人不安がある人は前頭葉の偏桃体抑制機能がうまく働かないために、不安が増幅しやすいのだという。
考えすぎる・不安になりすぎる・神経質すぎるというのは、一見性格の問題だと捉えられやすい。そんなこと気にするな、もっと明るく考えるべきだ、という風に言われるだろう。
でも、それがなかなかできない。それができたら苦労しない、なんて思うこともあると思う。
それは、気持ちの問題ではなく脳機能の問題だからだ。牛乳を飲むとお腹を下す人に「牛乳は身体に良い飲み物だから大丈夫」と言うようなものではないか。
だから、いちいち不安になる自分をダメだとか弱いとか思う必要はない。そういう脳をもっているんだと思えばよい。
不安を悪化させないために「積極的」になる
不安になりやすい脳をもっているけれど、だからといってなす術がないわけではない。不安を増幅させないことや、悪化させない方法というものはある。
そして、おどろいたことに、わたしがなんとなく実践したことは、対人不安を悪化させない方法として有効なものだったのだ!
対人恐怖にならないためには、鏡に向かって笑顔の練習をしたり、自分から積極的に挨拶するなどは必須だという。
さらに、自分の姿を撮影して見るのは、ビデオ・フィードバックという手法になるそう。実際の自分の立ち居振る舞いを客観的に見て、自己イメージの偏りを修正する方法。
これは対人恐怖ではなく、社交不安症の治療として有効だそうで、人前に出ることに強い恐怖を感じる人に有効だ。
「思ったよりは悪くない」「この程度なら人並みだ」と認識することで、自己イメージと実際のギャップを埋めていくことができるという。(わたしの場合は、実際の自分の姿が思ったより悪かったのだけど)
わたしは不安になったとき、その不安から逃げないようにしている。それは森田療法の本を読んだからだ。数年前、森田療法の考え方に大きく救われた。(森田療法についてはまた別の記事で書くことにする)
恐怖や不安から逃げないようにすること。不安や恐怖感を拒絶して、暴れないこと。
暗闇では目を閉じずに、目を開けて慣れるまでじっと待つこと。そして、不安や恐怖の対象に自分から近づいて観察すること。これで大概の恐怖が和らぐことを知っている。
不安を理由にどんどん消極的になると、ドツボにハマることがわかっているし、昔はそうだったのだ。
だから今は、不安なときこそ積極的に、能動的になっていくようにしているのである。