女性のASD

愛想がないと言われるので、自分の姿を撮影してみた

「愛想がない」「愛想が悪い」

わたしは人生のなかで幾度となくことの言葉を言われてきた。思えば子どもの頃からそうだっただろう。若い頃は「近寄りがたい」「怖い」などと言われていた。

大人になってからは、感じよく愛想よく振舞うことを研究したし、今も努力しているつもりだ。

しかし、改めて家族にわたしの振る舞いについて尋ねてみると「愛想がない」という評価は変わらなかった。

これはなんともショックである。自分の愛想のなさや表情の乏しさは重々知っている。だからこそ、人に会うときは気合を入れるし、120%の笑顔や感情表現をしているつもりだった。

でも実際、客観的にみると「全然できてない」のだからびっくりだ。

「愛想がない」という評価は、何もわたしの家族がわたしを批判したり叱責しているというわけではない。

わたしが自分で、自分の立ち居振る舞いについて「自分では気を付けているつもりだけど、他人からどう見えているの?」と尋ねてみたところ「愛想がない・愛想が悪い」という率直な感想をもらったに過ぎない。

でも、わたしは実際120%のエネルギーを使って社交している。それに対してこの評価はショックだし、落ち込む。

しかしわたしも負けてはいない。

何をどう変えたら「それなり」に見えるのか研究したいと思うのだ。

自分の表情・振る舞い・声のトーンを自分の目で見てみる

最近、とある活動のなかで人前に立って話をする機会が設けられた。もちろんわたしは、人前に立つのは得意ではない。そこで、話す練習をすることにした。

まず、自分のありのままの感覚で話す姿を動画にとってみた。

なんとまぁ、びっくりするほど愛想がない。伏し目がちで表情が薄く、声に張りもないし抑揚もない。なんだかゴニョゴニョ話しているし、これでは「愛想のない人」と思われても仕方ない。

素直にそう思った。

表情が乏しい、話し方に抑揚がないなどはASDの特徴でもあるので持って生まれたものだろう。でも、実際に目の当たりにすると「こんなに…?」とびっくりするのである。

自分の振る舞い方というのは、実際リアルタイムで目にすることができないので、勝手に「イメージ」するしかない。そのイメージと、実際の自分の振る舞い方は全く違っていた。

自分自身のイメージと、実際の自分の姿のギャップにショックを受けつつも、改善してみる。

目線を上にあげること、少し目を大きく開くこと。

「ちょっと大きすぎるかな?」と思うくらいの声量でちょうどよいこと。

笑顔をつくるときは、目を見開くのではなく目を細めるのが正解だということ。(わたしはポジティブな感情を表すときに目を見開くクセがある)

自分の姿を動画で見るというのは、非常につらいことだった。

なんか変!カッコ悪い!見たくない!恥ずかしい!

そんな感情もブワっと湧いてきた。

これはあくまでも「人前に立つ」という少し特別な体験のためにやったことだけれど、自分の姿や話し方を客観的に見るという行為はとても大切なことだと思った。

髪の毛を結うときに、鏡を見るだろう。自分からは見えない部分は合わせ鏡で見ることだってある。

自分の表情や立ち姿、話し方というのも、自分からは見えないものだから、ときどきこうして自分を見てみるようにしようと思う。

人に不快感を与えないことは大事

自分の映像を撮影して見てみるというのはわたしにとって勇気のいることだった。

わたしは「自分を見るのが好き」なわけではない。できれば自分を直視したくない。

でも「理想の自分」はあるのだと思った。理想の自分とは「できるだけ人に不快感を与えない自分」だ。別に、よく思われなくてもいいし、特別素晴らしいと評価されなくてもいい。でも「不快感を与えない」ということは大事だろうと思う。

こういう自分がよい。こういう風に振舞えたら。こんな風に話したい。

そういう「モデル」のようなものもある。そのモデルと、実際の自分との乖離が大きい。だからこそ、120%のエネルギーで社交をしても、実際の評価が低いのである。

別に、愛想を振りまこうとしているのではない。不愛想だって生きていけるし、とくに困らない。

でも、自己イメージと理想の自分とのギャップは埋めていきたいなと思うのである。

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