女性のASD

特徴を隠す?女性ASDの擬態と模倣

女性のアスペルガーは「自分は何なのか?」という疑問をもちやすいのだという。わたし自身「自分は何者なのか?」ということを長年考え続けてきた。さまざまなカテゴリーを調べて自分に当てはめてみたが、本音を言えばどれもが断片的だった。

一方、アスペルガーに出会って知識を深めてみると「自分が何者であるか」といった疑問や、これまで人と違うと感じてきたこと、周囲を困惑させてきた原因をすべて合理的に説明することができた。

ただ、アスペルガーは自分のなかのすべての疑問と矛盾をすべて説明できるのに対し、周囲にはまったくわからない。最初は、自分が自閉症スペクトラムの本を食い入るように読んでいることも、少し不思議だったし、誰かに見られてはいけないと感じた。

診断が付きにくいというだけでなく、そもそも自分が発達障害であることすら気づかなかったり、受け入れるのに時間がかかることもあるだろう。

その大きな原因として考えられることのひとつは、女性は擬態や模倣をするということ。周囲に溶け込むための技術や手法を編み出して、障害の特徴を隠すことが非常に上手なのだ。

人と違うこと・異常性を隠すアスピー

女性は集団に溶け込む能力に長けている。男性のASDは、幼いころから視線が合わなかったり、集団に属さずひとりで遊びたがったり、発語が遅れたりして、発見されやすい。

一方女性ASDは、一見他の友達と楽しそうに遊んでることもあるし、視線を合わせて会話することもできる。さらに、発語は平均よりも早いケースも多い。わたし自身もそうであり、多くのアスピーは、「話し始めるのは早かったと聞いている」というのだ。

また、前思春期~思春期にかけて女性は、集団のなかでうまくやっていく必要性をさらに強く感じるようになる。(もちろん、タイプによるのですべてのアスピーがそう感じるわけではない)

集団の中で自然に楽しむことができるのではなく、排除されることや、自分が人と違うことを悟られないために、うまくやっていく方法を見出し始めるということだ。

とくに成人してから「ASDなのではないか」と疑い始める人は、カムフラージュが根に染み込んでいることもある。わたしには、どこからが本当の自分で、どこからがうまくやるために編み出した方法なのかもわからなくなっている部分がある。

それも含めて自分だと言われればそれまでだが、より詳しく分析したい。ASD女性は、あらゆることを解明したいと思い、そうせざるを得ない。「だいたいそういうもの」「なんとなく」が大の苦手だからだ。

自身も自閉症スペクトラムを診断され、自閉症スペクトラムの人を支援する団体を運営しているサラ・ヘンドリックスの著書【自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界; 幼児期から老年期まで】には、このような一節がある。

ASDの女性は、日々を乗り越えるため、求められることを別の形で満たそうとしたり(代償行動)、仮面を被ったり、巧妙な戦略を駆使したりして、人知れず苦手な状況を回避している。

引用:自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界; 幼児期から老年期まで  p172

わたしの場合、自分が一般的な女性や、年齢相応の考えや振る舞いをする女性との違いを隠すためにしていることは、模倣と擬態のふたつだ。

どちらも、幼少~10代前半に身に付けたものであり、それを無意識に続けていたことに気づいたときは大きな衝撃を受けた。なんとも言えない喪失感さえある。具体的にどんな方法をとっていたのか詳しく書いてみる。

模倣

模倣とは、相手を真似ることだ。目の前にいる母親や従弟の子ども、友人の話し方やしぐさ、行動をそのまま模倣していた。

たとえば、3歳くらいの頃に、母親がわたしを叱るときの口調やしぐさを真似て遊んでいたことがあった。母親の鏡台の前に立ち、化粧品の瓶をヤギ・羊・馬などの動物に見立てて叱るという遊びをしていた。

それをさらに5~6歳ごろになると、幼稚園のクラスメイトに対象を変えて遊ぶようになった。友達に向かって、母を模倣した演技をするのだ。相手は泣いていたけど、やめなかった。先生は、わたしがいじわるをしていると思ったようで、ほうきで履き掃除をしながらこちらをグッと睨んだ。わたしとしては、母の真似をしているだけのつもりだった。

それ以降も、わたしは一緒にいる人の口調を真似して話していた。従弟と一緒に遊ぶときは、従弟の口調や声のトーンをそっくりそのままコピーする。仲の良い友達の話し方も真似る。その行為を母親に指摘されたことはあったが、深く追求されることはなかった。

「君たち、おんなじ話し方するね」と、一度だけ男の子にズバリ言われたこともあるが、他にはとくに指摘を受けたことはなかった。

模倣は今でもやってしまう。人と長く一緒にいた日は、別れた後も相手の話し方がしばらく抜けないので「今日は〇〇さんに会っていた?」と、夫にバレてしまうくらい。

コミュニケーションを取るべき相手と、同じ話し方をする。そうすることで、テンポや空気、タイミングを計っている。模倣をすれば、それらがわかりやすくなるので、楽に話ができるようになる。しかし、一人になってから強い疲労感と、気持ちの悪さを感じて落ち込むこともある。

擬態

擬態は、昆虫や動物が自分のみを守る目的で、環境に溶け込む別の姿かたちに見せかけること。とくに、アスピーの擬態は隠蔽的擬態(目立たなくするために形を変える)にあたるのではないかと思う。

わたしは小学校高学年になると周囲の女の子との違いが目立ち始め、浮いた存在になっていたようだった。流行の歌も知らない、芸能人にも興味がない。外見を可愛くすることや、身だしなみも苦手だった。

小学校5年生ごろには、それが顕著になってきた。隣の席の男の子に嫌われていていじわるをされるようになった。クラスメイトの女の子から「Aくんが、あなたのこと『女子として終わってる』って言ってたよ」などと報告を受ける。先生には「女子であなただけですよ?こんなことができないのは」と言われる……などなど。

このとき初めて、自分が他の女の子と何かが違っていることに気づいた。

そこからわたしは、クラスで人気のある女の子の風貌や、女子同士の会話を観察するようになった。すると、案外簡単にいろんなことがわかった。

髪の毛をきちんと梳かしていたり、可愛く結んでいたりするんだ。テレビ番組の話をしていること。モーニング娘の新しい曲を一緒に口ずさんでいること。

わたしはその日から、観察と勉強を繰り返した。まとまらないクセのある髪の毛を結ぶにはどうすべきか?周りの子が持っている持ち物の色や柄はどんなものが多いのか?

そして、女の子たちが話題にしていたアイドルの名前をメモして、新聞のテレビ欄でその名前をさがした。夜11時からそのアイドルが出る番組が放送されると知れば、その時間まで眠気をがまんして起きていることにした。曲の歌詞をノートにメモして、録画を繰り返し再生して、できる限り覚えた。

後日「わたしもその曲知ってる」と言うと、わたしは女の子たちのなかにすんなり溶け込み、カムフラージュできた。こんなことは初めてだったので「こうすればよかったんだ!」と感激さえした。人間関係は、研究と実験、そして改善の繰り返しであると思った。

アスピーの模倣や擬態は長続きしない

わたしは擬態する方法を編み出すのがわりと得意だったようだ。一度やり方やコツがわかると、それを応用することができた。(どこにでも同じように応用してしまうので、すべての場所でうまくいくわけではない)

でも、それを続けるにはかなりの時間と労力が必要だった。生き残るため、集団で浮かないための努力を続けても、ストレスが溜まるばかりだ。「自分がどうしたいか」「自分の好き嫌い」は関係なくなってしまう。

集団の中で生きることは、自分にとって業務だった。業務に必要なことばかりしていて、自分を犠牲にすることが増えた。

エピソードとして浮かぶものだけでなく、日常の中で無意識にやっていたり、刷り込まれていたりすれば、擬態や模倣だとは気づきにくい事柄もたくさんある。

ただ、発達障害がそうでないように見せる擬態はどんなものであっても、ストレスと疲労をもたらす。現に、わたしは小学校5年生のとき過呼吸症候群になっていたし、15歳中学3年生のころにはうつ状態・適応障害と診断された。心と体が変化する前思春期~思春期にかけては、その影響が強く出やすいのではないか。

わたしの場合は家庭環境や親子関係の問題も大きいが、個人的には家庭の問題にもやはり発達障害は関与しており、別個に考えられるものではないという結論に至っている。

女性ASDの模倣や擬態をどのように捉えるべきか

このような擬態や模倣は、けっして不正解な行為というわけではない。社会に適応するために、集団に馴染むための行為。それはレジリエンス(乗り越える力)になっているはずである。

先ほど引用した自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界; 幼児期から老年期までp172 の中にも、その記述はある。レジリエンスとは、回復力やしなやかさを意味する言葉である。

もちろん、擬態や模倣をし続けることで心身に支障をきたしやすくなる。でも、根本的な部分で「自分にとって不利な状況や環境を、どのような視点で見て、どう行動するか」という訓練の繰り返しであったように思う。一時的に精神を病むことがあっても、そこからの回復、乗り越える力がある。

このようなことができるのも、レジリエンス(乗り越える力)が並外れているということの証であり、往々にして「失敗したくない」「変人だとバレたくない」という断固とした決意のあらわれであったりする。

引用:自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界; 幼児期から老年期までp172

ずっと続けることはできないが、自分がASDであることを知っていれば話は別だと思う。必要なときに擬態の技術を使い、本当の自分は別にあると知ること。

また、擬態が必要なときとはいつなのか、擬態する必要のないところで擬態しているのではないか、という自問自答なども必要になってくると思う。

だからこそ、まずは自分がASDなのかどうかを診断することが重要である。女性アスペルガーについて書かれた書籍には、ほとんどそう記されている。

人との違いを隠すことができるのは、一つの能力である。しかし、その能力をカムフラージュにばかり使っていると、人生の質・生活の質(QOL )の低下を招きかねない。QOLの低下は、精神衛生に問題をきたすだろう。

自分を知る必要があることに加え、大多数の女性たちと自分はどこが、どのように違っているのかを知らなければならない。そのことを今、わたしはまざまざと感じてここに書き留めているのである。

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コメント

  1. まりも より:

    私も全く同じ生き方や考え方をしてきたので、記事を読んで驚きました。
    診断はされてないのですが、常に周りに同調しようと頑張り1人になった際倒れるように休むを日々繰り返しています。

  2. アスピーちゃん より:

    まりもさんへ

    読んでくれてありがとうございます。
    適応するためには、常に訓練や練習が必要ですね。

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